破局でなく喜びの時


                  セーヌ川のクルーズ(ドッピ―歩道橋)           右端クリックで拡大
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                                                    再臨のキリスト (上)
                                                    ルカ21章25-33節


                              (1)
  先週の個所には、「世界の終わり」、終末についての幾つか留意点が書かれていました。今日の個所も留意点を含みつつ、終末の前兆と共に、終末とは何かが語られます。

  「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」

  終末には、太陽と月と星々が揺り動かされて異様な徴が現われるというのです。宇宙的規模の大異変が起きるということでしょうか。

  また、「地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」と言われます。諸国の民とは端的に言って世界の民です。全人類が不安に陥るというのです。

  「海がどよめき荒れ狂う」という言葉を読むと、北陸に長く住みましたので、冬の日本海を思い出します。荒れ狂う時は、高さ7、8mの高波が怒涛となって終日打ち寄せ、誰も傍には近づけません。まさに「どよめき荒れ狂う」とある程の凄まじさを呈します。だがここで言われるのは、沖合からゴーゴーと吠え叫んで防波堤を次々越えて打ち寄せる高波や海鳴り、それをも越えて言語に絶する激しく荒れ狂う怒涛を指すのでしょうか。

  自然の荒れ狂う猛威の前には、現代人も為すすべを知りません。東北を襲った大津波の光景を思い出せば十分です。

  いずれにせよイエスが語られるのは、太陽や月や星など、天体が揺れ動くとあるような宇宙規模の大異変。そして地上で起こる恐ろしい様(さま)に圧倒されて、人々は「世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさの余り、気を失う」というのです。

  不安とありますが絶望を指します。「何が起こるのかと」とは、どんな脅威に襲われるのかという意味です。「気を失う」とは、卒倒する、気絶するという事です。

  これほどの絶望に襲われるのは、「天体が揺り動かされるからである」とあります。地の基が揺れ動くだけでなく、天体が大地震の如く宇宙的規模で揺り動かされ、宇宙地震とも言うべきでしょうか。星々は軌道を外れ、天体が曲がり、壊れ、砕け、溶け落ち、狂ってしまうことまで言うのでしょうか。

  日本基督教団の教会ではありませんが、ある教派の教会では、世の終わりには、今の宇宙がすっかり崩れ落ちて、全く違った新しい宇宙になると説いているそうです。字義的に解釈すれば、そういう解釈もあると思います。

  もし巨大な流星や惑星が接近すれば、引力の関係でそんな異変が起こり、衝突すれば更にその衝撃で大異変が起こるかも知れません。また、ブラックホールに飲み込まれたら、こういう事態を迎えるかも知れません。

  しかし、イエスが今日の個所や他の個所で言われるのは、そんな荒唐無稽な事でなく、比喩とか暗喩の類いです。「天地は崩れる」と言っても、科学的、物理的な意味で宇宙が崩れると言うのでなく、比喩的に私たちの手が届かない深刻な事態が起こると言うのであって、言葉通りでないでしょう。私たちは、「今の宇宙がすっかり崩れ落ちて、全く違った新しい宇宙になる」かどうかは分からないと、正直に言わなければならない。繰り返しますが、イエスは比喩や暗喩で語られたのであり、現代人が考える宇宙の破局を言っておられるかどうか分かりません。むしろ神話的に語られたのです。

  ですから、恐ろしい世の終わりの裁きや破局に焦点を絞るのは間違いです。そういうものはいたずらに人々を恐れさせ、惑わせるだけで、健康な信仰に導きません。

  脅威を強調するよりもっと大事なことは、イエスがこの個所で語り強調されるのは、宇宙的大破局カタストロフでなく、「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」という事です。

  「その時こそ」、人の子キリストが再臨し、大いなる力と輝かしい栄光とを帯びて来られるのを人々は見るという事です。

  即ち、恐怖の余り気絶する者もいるが、これは破局でなく、人の子キリストの喜ばしい来臨の時だというのです。私たちの救い主であり、力強い助け主、慰め主、弁護者。私たちにとって親しいお方であられるキリスト。十字架に付けられたが復活し、天に上り、父なる神の右の座に着き、愛と忍耐をもって歴史を導き、ご支配して来られたお方が再び来られるのです。キリストにお目にかかれる喜びの時です。怯える必要はなく、希望と喜びが訪れる時だという事です。

  最後の審判の時でしょうが、イエスは審判の時とは言われません。むしろ、「解放の時」だと28節で言われたのです。「解放」とは、元のギリシャ語で救いのことです。罪の赦し、赦免、贖いを意味します。その時は、私たちの罪からのまったき贖い、赦免、神の最後的な恵みのご支配が現われる時であると言われたのです。

  1週間ほど前に、無期懲役で20年間刑務所に収監されていた男性と女性が釈放され、喜びに包まれていました。それと同じように、「その時」は、私たちは悪しき世の力から解放され、罪を贖われ、すっかり赦免されて神のみ前に導き出される喜ばしい時です。一切の囚われから解放され、奴隷状態から解き放たれる時です。

  「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」時は、神の恵みが現実になり、救いが完成される時だと言ってよいでしょう。だから救いの喜びを持って、「身を起こして頭を上げなさい」と。即ち、身を起こし、立ち上がって、頭を上げて救い主キリストを仰ぎなさいと語られるのです。

       (つづく)

                                             2015年11月1日



 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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