自分の内に底知れぬ深淵があります


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                                                  沖に出て漁をしなさい (下)
                                                  ルカ5章4節


                              (2)
  さて、イエスが言われた「沖」とはどこでしょう。むろん沖とは日本語では陸からかなり離れた場所ですし、漢字も氵に中と書いて、周り一面に水だけがある水の真只中です。ところが原文では「深み」となっているのです。

  では教会にとって、私たち一人一人にとって、沖、深みとはどこなのか。原文では必ずしも岸からかなり離れた所となっていません。ガリラヤ湖は山に囲まれた自然の湖です。岸から僅か離れるだけで、そこは何m、何10mの深みの場所もあるでしょう。

  私たちの生活や教会にとって、沖や深みは案外身近な所にあるのではないでしょうか。家族や友達。そこがもう深淵が横たわっていたり、手出しできない場所であったり、心が通じないほど深かったりしているかも知れません。

  イエスは、そこに漕ぎ出し漁をしなさいと命じられたのです。家族や隣人、彼らとの新しい出会いへの決断、出発を促しておられるとも言えます。出会うためには、先ず赦さなければならないでしょう。赦しがないので、人との間に深みも深い亀裂も横たわってしまっている。また、人への恐れがあるので、すぐ傍の隣人とも真に出会えないのかも知れません。

  また別の人にとっては、自分自身が、自分にとって沖であり深みであり、底知れぬ深淵であり、その深みにいる本当の自分自身と出会うには、キリストによって自分のこれまでが赦され、隠れた罪まで贖われなければ、到底自分自身を受け入れ、自分自身と和解が出来ない所にいるかも知れません。自分が、自分自身にとって他人になってしまっている。それ程、深い分離を自分の中に持っている人がいらっしゃるかも知れません。

  しかし、たとえそうであっても、イエスは深い溝を埋めて下さるのです。神の一人子の、あの十字架の尊い贖(あがな)いの血は自分の努力だけでは解決できない深淵をも埋める力を持っているのです。「さあ、沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言って下さり、それに従うなら、貧しい身にも、神の憐れみがあって良い実を結ぶのです。大漁旗を掲げたいほどの恵みを人生で経験するかも知れません。

  人間が霊的・精神的に新しくリフレッシュされるのは、この存在の深みや沖において、主の恵みに与る時にのみ、真実に心底からリフレッシュされる可能性があるといっていいでしょう。それは、神によって義とされて、神との間に平和を得、希望を与えられて歩むという、信仰義認の本質的レベルでの霊的革新に与ることでしょう。

  ペトロはどうしてこの大漁を経験したのでしょう。単純化して言えば、彼はこれまで好き勝手に網を打ち、自分の勘に頼っていました。勘は大事ですが自己流であり、我ままであった。だが、イエスが言われるので、沖に、深みに漕ぎ出して網を打った。イエスに、真理に応答する素直さが、恵みを体験するきっかけになったのです。

  繰り返しますが、沖とか深みとあるのは、中々私たちの手が届かない所です。そこは魚が沢山住む恵みの場所である。だが、魚のいる場所は水の上から分かりません。ですから、中々手が出ないし、網を打てないのです。だがみ言葉に従い、真理に従い、イエスの勧めに従ってその場所で網を打つ。すると不思議に恵みに与るのです。

  「お言葉ですから」とあります。これも原文に従えば、「あなたの言葉の上に立って」網を降ろしてみますという事です。イエスの言葉を根拠に行動したのです。それが大漁に導かれた。それが今日の話しです。

  平日礼拝で申しましたが、この間、海外放送を見ていましたら、何十人か難民を受け入れているドイツの教会が放映されていました。向こうの教会は大抵幾つも部屋がありますが、それだけでなく教会員たちも難民に部屋を提供しているのでしょう。

  教会はボランティアで、難民の何人もにドイツ語を教えていました。また、イスラムの人ですから、牧師は希望者に洗礼準備の信仰教育をして、何人も洗礼を受ける人が出ているということでした。ただ牧師は、進んで、心からキリストを信じる人でなければ、洗礼を授けませんと言っていました。

  洗礼を受ければ、難民申請に有利かも知れないが、有利だから洗礼を受けるというのではない。教会はキリスト者を増すのが目的でなく、キリストと出会い、キリスト教信仰が本当に救いの喜びとなり、魂の底から感謝である方だけに洗礼を授けていますと語っていました。

  この教会も難民を受け入れて沖に漕ぎ出したのでしょう。では、私たちは沖に、深みに漕ぎ出すとはどういうことか、私たちは自分のことを、一人ひとり考えて行きましょう。長くなるので今日はこれで終わります

       (完)

                                             2015年10月18日



 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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