世界の最後はニヒリズムか


 新オペラ座=オペラ・バスティーユは、オペラ座=パレ・ガルニエの重厚な豪華絢爛さはありませんが前衛的な造りです
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                                                    神殿崩壊の予告 (下)
                                                    ルカ21章5-6節



                              (3)
  一体、何のためにイエスは神殿崩壊を予告されたのでしょう。それは今日の個所にはまだ現われませんが、この予告をきっかけに、7節以下で、世の終わり、終末の予告をされます。イエスは神殿の崩壊を一つの根拠に、今、世界の終わり、終末について語ろうとしておられるのです。

  すなわち、イエスはこの巨大な神殿の崩壊予告をきっかけに、そこから、いかなる人間の壮大で壮麗な営みもやがて崩壊し終わりが来ることを預言されたのです。

  先週は2人の日本人のノーベル賞が発表されました。医学生理学の大村さんは、夜間の工業高校の先生をしておられたというので、ノーベル賞に多くの人が身近さを感じました。ノーベル賞が初めて庶民の身近なものになったと思います。

  物理学でも受賞者が出ました。私たちは少し前まで、物体や人体を自由に通過する物質があると誰が信じ得たでしょう。そんなの、幽霊以外知りません、架空ですが。ところが人体だけでなく、固く巨大な地球を突き抜けて素通りできるニュートリノという物があるというのです。しかもそれに波動があるという。まさに人類が打ち立てた金字塔と言えます。

  しかしそれと共に、今は金字塔である偉大な発見も、やがては人類の知の地平を切り拓く別の人々によって切り崩され、捨てられ、再び新しい発見へと導かれて行くに違いありません。科学の歴史はそのようにして今日に至っています。

  今、申し上げようとしているのは、私たちが目にする壮大な建物も国家も更に科学技術も、また壮大な偉大なものを発見したり築いた人物も、永遠でも、究極でもないという事です。すべては古くなり、乗り越えられる運命にあるという事です。

  どんな地上のものも永遠でなく、有限であって滅亡を免れないことを、イエスは今日の個所でおっしゃられたのです。

  ただイエスは、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と、厳しく 神殿崩壊を語り、世の終わりについて語られますが、だからこの世は絶望的だとか、裁かれるべきだ、消え去るべきだとニヒリスティックに言おうとしておられるのではありません。

  神殿崩壊を予告し絶望的なことが次々起こることを予告されます。だがイエスは、たとえ時代が滅び、天地が滅びるとも、即ち世がニヒリスティックに見えても、神の言葉は永遠に滅びないこと。この神の言葉に人類の希望があることを語るために、21章を語られたのです。

  ですから、おかしな言い方ですが、今日の中心聖句は今日の個所にありません。今日の中心聖句はこの章の後の方、33節にある「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」という言葉です。

  もう一度申しますが、たとえ世界にまた私たちの個人の身に、「天地が滅びる」と思える程の絶望的なことが次々発生しても、希望があることをイエスは告げられるのです。ニヒリズムが勝利したように見えても、世界の最後はニヒリズムでなく希望に満ちた神の勝利です。

  芥川龍之介は、「羅生門」にしても、「鼻」や「河童」にしても、犬のような嗅覚を持って社会と人間を嗅ぎまわった人です。「人の世の至る所に嘘を、何か根本的な自己欺瞞を見た」と言っています。クンクン嗅いで腐ったものを探り出す。それに長けてニヒリスティックに辛辣な批評をしました。

  確かに今の社会を考えても、「民主的」と言いながら何かそこに欺瞞があります。「自由社会」と言われますがここにもどこかに嘘が混ざっています。平等と言っても微かな偽りの臭いが漂っています。彼は本物を見抜く天才的な眼力をもって、天地にある何ものも真に人間を支えてくれないことを鋭く見抜き、しかも支えてくれるものがなければ、安心して生きえないのが私たち孤独な人間であることを見事に喝破しました。

  この世を喝破しキリスト教にも近づきますが、少しの所で委ね切れずに自殺します。

  だが、欺瞞を見抜くが、自分を支えてくれるものを見つけられず、ニヒリスティックな不安を持ってさ迷う私たち小さな魂にとっても、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」、キリストの言葉は確実で、永遠であり、最後究極的に信頼できることを、イエスはこの21章で証しされるのです。

  滅びる物、永遠でない「これらの物に、見とれている。」そこにニヒリズムがあります。それらは必ず崩されます。有限であるのに永遠のような顔をしていますが、崩れます。

  人は皆、真に永遠なるお方との関係の中で自己を把握する時にのみ、真の希望が生まれます。しかしこのお方との関係を断ち、これらの贋(にせ)ものに見とれ、自力でやって行こう、自分の力で命を得ようとすると、見るみるうちに人工的希望は色あせた希望になり、安心して生き得ない世界に自分を置いてしまいます。

  イザヤ書40章6節以下にこうあります。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ……。」いかなる物も草や花のように萎み、枯れてしまいます。だが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

  イエスはこう言われました。「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のため、また福音のためにそれを失うものは命を得る。」

  私たちは自分の命を自分の手の中に持っていません。命は借りものです。預かりものです。誰も、命を永遠に所有することは出来ません。だが、私たちが命を預かったそのお方との関係の中で生きる時に、平和を得、喜びを得て生きることが出来るのです。

  ヨーロッパにおびただしい難民が流入しています。その難民の人たちの所で働くある信仰者がこう語っています。「私たちは、あらゆることをするのは不可能です。だが何かある一部のことは出来ます。しかも私たちが行なうものを、信仰をもってうまく行なうことが出来るのです。」

  喜びを持って、平和の心を持って、与えられた場所で、たとえ偉大なことや巨大なことは出来ず、一部分のことしかできなくても、それを、キリストを仰ぎ信仰を込めて行なって行きましょう。

  たとえ世が崩れても、皆さんの上に、キリストの平和があるようにお祈りします。


        (完)

                                             2015年10月11日



 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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