お盆に乗ったリビングストン


                           サクレ・クール聖堂において       右端クリックで拡大
                                ・

                                                  真実な美しい献げもの (中)
                                                  ルカ21章1-4節


                               (2)
  イエスは、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と言われました。

  むろん金額からすれば、金持ちたちは彼女の数10倍も沢山献金したでしょう。しかしイエスは、「だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。

  イエスはお金の額でなく、彼女の生活費のどれだけか。どれだけの痛さを持って献金を捧げたかに目を向けておられるのです。言わば絶対評価をもってご覧になるのです。外観でなく、その心を見られるのです。

  心をご覧になると言っても、心が入っていたら、気合いが入っていれば、それでよいというような精神論ではありません。心や気合が、エイッと入っていても、実際の痛みを感じないなら、その心や気合は単なる言葉だけでしょう。それは神を侮る行為になりかねません。心が入っているかは、どれだけ痛みがあるかどうかです。

  金持ちたちは余裕を持って献金していました。見せびらかすように献金をしていたかどうか分かりませんが、彼らはあり余る中から献金していた訳で、言わば神様と余裕を持って付き合っている。遊びか趣味、まあ片手間で神の前に来ているのです。

  だが、このやもめは真剣に神の前に出ています。真剣に神の前に出ると言う事は、真剣に自分自身と向き合わなければできません。金持ちたちは、まだ自分と真剣に向き合っていないのです。遊びがある。むろん金儲けには真剣でしょう。むしろ生き馬の目を抜くような真剣さで生きているでしょう。だが、人間としてどう生きるかには、まだあまり真剣でありません。

  このやもめは痛いと思う程の献金をしました。一日の生活費全部を入れたのですから、今日の夕方から明日まで食を断つのでしょう。そのような空腹の痛みを持って献金をし、神に向ったのです。痛みのある献金とは、そういう身を削るものでしょう。

  イエス様は十分の一献金とかおっしゃいません。そういう画一的なものは無理がありますし、人それぞれの実情に当てはまりません。

  献金は献身の徴です。感謝の徴です。献身という思いを込めて献金をする。それが私たちの献金への思いです。彼女は自分という存在の一日分を神に捧げたのです。多い少ないは関係なく、存在自らを神にお捧げするという行為が尊いのであり、美しいのです。神は量でなく、質に目を留められるのです。

  ですから少年リビングストンは、ある宣教師がアフリカでの伝道の帰国報告をして、礼拝で献金のお盆が回って来た時、献金係の人に「おじさん、そのお盆を床に置いて下さい」と頼んだのです。床に置かれると、彼はお盆の上に乗って、「神様に僕をお捧げします」と言ったのです。

  言葉のまやかしでなく、やがて青年になったリビングストンは、暗黒大陸と言われたアフリカ大陸の人たちへの宣教にその身を献げました。日本では彼は探検家として有名ですが、彼の偉大さは探検よりも、アフリカの奥地の人たちへの伝道であり、教育であり、人間としての魂の救いでした。彼は少年時代に神に約束したように、アフリカ人宣教にその一生涯を捧げたのです。これ程明白な身を切る献身としての献金はないでしょう。


         (つづく)

                                             2015年10月4日


 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・