この時代の幸せ


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                                                    ダビデの子について (4)
                                                    ルカ20章41-44節




                              (4)
  イエス様は今日の所で、ダビデが下だ、メシアが上だなどと勢力争いをしておられるのではありません。1千年前の君たちの先祖ダビデ自身が、メシアを主と呼んでいるではないか。彼はあなた方よりもっともっと謙虚で打ち砕かれていた。

  それに比べ、ダビデの名を借り、己(おのれ)の権威を不動のものにしようとする事に偽りがある。ダビデを担いでユダヤ教の権威を打ち立てる所に邪(よこし)まがある。それでどうして神を礼拝していると言えるかということでしょう。

  ですから、45節以下の言葉もこの関連で述べられたのです。「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

  詳しく述べる必要はないでしょう。彼らは傲慢で、着飾っていますが実に醜い姿をしています。神様の前に素直でも率直でもない。あるのは支配欲や権勢欲です。次の21章冒頭のやもめとは正反対の姿をしています。

  ダビデは素朴です。彼の魂は砕かれて、清さがあります。羊の後ろから取り出されたこの男は、貧しい人に心を寄せる心の低き人です。

  私は毎週、薬物中毒から抜け出したいと願う人たちのNAの集まりに出させて頂いています。出るのが嬉しくてならない。彼らは本当に自分をよく見つめている人たちで驚きます。ダビデ詩編51篇で、「神の求められる生贄(いけにえ)は打ち砕かれた霊」と歌っていますが、人生に躓き、彼らは人間として砕かれているのです。みな元気ですが砕かれています。そこが貴いと思います。人間は中々砕かれません。ダビデはああ言いますが、私たちクリスチャンで真に砕かれている人はどれだけあるでしょうか。

  先日もある方が、「経験を積んだ人は凄いな」と言って、社会福祉事務所の人が、薬物中毒の人の施設で働く彼の所に相談に来られた時の相談の仕方を、話し始められたのですが、温かい目で非常によく人を観察し、自分の足りない所を見て話していました。

  心が低いのです。謙虚です。砕かれているのです。彼らの言葉を聞いていると、キリスト者として、牧師として、神と人の前にもっと砕かれ、謙虚にならなければならないと思わせられる。それが嬉しくてならないのです。

  ダビデは詩の形でメシアを歌いました。だが、彼はメシア・キリストには会うことはできませんでした。ところが私たちはメシア、イエス・キリストを知っています。ダビデ以上に恵まれた幸せな時代を生きているのです。どうしてこの時代の幸せに気づかず、感謝をせずに生きていいでしょう。

  私たちは低くなられた神、救い主を知っています。「神には赦しがあるので、人に恐れ、畏まれるでしょう」とあります。私たちはこのお方に導かれて、今週も歩みたいと思います。

       (完)


                                             2015年9月27日



 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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