優しく語ると説得力を増す


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                                                    ダビデの子について (3)
                                                    ルカ20章41-44節




                              (3)
  ところで、「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで」とはどういうことでしょう。

  神が、メシアに、この言葉を語られたとダビデは語るのです。「わたしの右の座に着きなさい。」これは、私たちが先週も唱えました使徒信条で、イエスの復活と昇天を述べて、「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白している事です。

  ユダヤでは日本と反対で、右は、左よりも位が高い場所です。神の右に座すとは、その役割において神の働きを行ない、その権威において神のご支配を代表しています。

  支配と言うと権威主義的に上から威圧的に支配することを想像しがちですが、イエスのご支配はそういう支配と違います。それは、人類の罪を一身に担って十字架に着き、人の罪を自分の身に全て引っかぶることによって起こりました。人のためにご自分をすっかり投げ出すことによって起こりました。その時、引っかぶると同時に、ご自分の持っておられる命と祝福の全てを人々に与え尽くすことによって、即ちご自分は捨てられ、十字架上で呪われることによって、人々を極みまで愛してその罪を取り除くことにより、ご支配をされたと言う意味です。その支配は愛の支配であり、恵みの支配であり、私たちの主は、低くなり僕となって仕え給う主です。

  また、「わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで」とは、神が終末的、最終的にあなたの敵を打ち砕くまでと言う事です。

  「敵」とあるのは神の敵であり、キリストの敵のことですが、元の言葉では、敵意を指し、憎しみを持ってかかって来る者を指します。敵意を露わにして神に襲いかかる者です。そういう敵を打ち砕いて足台とするまで、私の右に座していなさいと、神がメシアに言われたと言う事です。

  ここは、エフェソ書6章10節以下を思い出させられる個所です。こうあります。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し…、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる…。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」

  神の戦いに呼応して、キリスト者の戦いの在り方を記しています。「悪魔の策略」とか「悪の諸霊」とありますが、悪魔とあるのは、元の意味は中傷する者、そしる者、悪意を持って責めたてる者、間を裂く者などの意味を持っています。ただ、私たちが注意しなければならないのは、人を中傷したり、そしっていると、自分自身が悪魔の味方か親戚になりかねないと言う事です。悪とあるのは、劣悪な、邪まな、悪意を含んだという意味です。これも、私たち自身が悪意を含んだり、劣悪で邪まな思いに駆られてはいけないと言う事です。自分への警告として先ず読めます。

  そして次に、今度は私たちが中傷する者やそしる者、悪意を持って責めて来る者に対してしっかり対抗するためには、神の武具とあるもの。真理と正義と平和の福音を心に準備し、信仰の盾を取って放って来る火の矢を消し、救いの兜をかぶり、神の言葉という剣を取り、霊に助けられて根気よく祈りなさいと命じられています。

  ここには攻撃こそ最大の防御と言う勧めはありません。それはどこにもない。むろんスポーツやこの世の色々な事柄で、攻撃こそ最大の防御という戦略がいけないと言うのでは決してありません。ただ、ここにあるのは真理と正義と平和による平和的解決の勧めです。聖書が指し示すのはあくまで平和的解決です。平和を求めてこれを追えと言うのも同じことです。

  剣とありますが、その剣でさえ、尖って殺傷力の高い剣でなく、人を癒す力を持つ神の言葉という剣です。癒しの言葉で語らなければ、戦いは止まないと言うことです。箴言15章に、「癒しをもたらす舌は命の木。邪(よこし)まな舌は気力を砕く」とあります。また16章に、「優しく語る唇は説得力を増す」とあり、反対に「激しやすい人はいさかいを引き起こす」とあります。

  EU欧州連合はシリアなどの難民12万人を各国に割り振って受け入れて行こうと合意しました。元々自分の責任でもないし、受け入れる義務などないのですが、イスラム国の攻撃を逃れ、戦火から命からがら逃れて来た人々に大きく門戸を開いたのです。これは刮目(かつもく)に値する出来事です。日本の評論家などは、結局EUは分裂を避けられないと冷淡に見ていましたが、説得力のある優しく語る唇が勝利したのです。むろん前途多難ですが一つひとつ山を越えて行くところにEUの凄さがあります。ギリシャのことも山を越えたばかりですが、癒しをもたらす舌はいかに困難な問題をも越えて行くか、私たちはもっと謙虚になってEUから学ばなければならないでしょう。

  逸れましたが、エフェソ6章に関して、悪の霊との戦いをどう戦うのかという事でそんな事を教えられます。


       (つづく)

                                            2015年9月27日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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