魔性のありか


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                                               何に望みを置いていますか (上)
                                               1ペトロ6章17-21節


                              (序)
  テモテ前書を学んで来て、今日はその最後になりました。前回の所は、神への賛歌が高らかに歌われていましたし、最後に喜ばしくアーメンという言葉で締め括られていましたから、16節で手紙を終わっても良かったのです。手紙はそこで完結しています。

  ところが蛇足のような17節以下があります。ですから、これは後世の付け足しでないかと思ったりします。

  だが蛇足でなく、書き手の気持として、青年テモテが直面している課題は大きく、どうしても16節で終われなかったのでしょう。それで蛇足と思いつつ補足した。それが真相でないかと思います。

                              (1)
  この部分にタイトルをつけている英語聖書があって、「富めるキリスト者」となっています。

  西暦2世紀の初め頃には、信仰者の中に裕福な人たちがチラホラ入って来ていたのでしょう。使徒言行録に出て来る、高価な紫布を扱う婦人リディアもそういう一人です。彼女はしかし高慢にならず教会に仕えた人です。信仰を持ちながら、富を追求する人たちも信者の中に出て来たのかも知れません。それに、手紙の様子からして、知識を求める人たちの問題性も起ったようです。

  そこで富んでいる人たちに、「高慢になってはならない」、「神に望みを置く」ように命じなさい、と説いたのです。同様に、知識を鼻に掛ける人にも語っています。根は同じだからです。

  「高慢」とあるのは、元の言葉では「高く聳え立つこと」です。高く聳え立って高慢にも傲慢にもなるのです。

  確かにお金の多寡(たか)は人を翻弄します。沢山の所得を得る人は偉い人だと見なされたり、本人自身もその罠に掛って、高く聳え立ってしまうことがある。取引銀行が何とか銀行だから、あの人は信用できる。そんな判断をされたりします。

  富を熱烈に追求し始めると、愚かですが何故か人は堕落する傾向があります。熱心に追求すればする程、悲しいことにそうでない人を見下げることも起こります。

  その人自身は歯止めがあって失敗しないかも知れません。ところが子や孫の代で、問題が露呈する場合が少なくありません。近年、そんな会社が幾つも起こっているのがその証拠でしょう。

  ですから17節の、「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」という言葉は、今でも有効です。

  ここに健全な生き方がある。富の力を越えて生き、富を仰がず、神を仰いで生きよということです。

  繰り返しますが、お金には魔物性があります。自分は上手にそれを操り、金を支配していると鷹をくくっている人が、いつの間にかお金に支配され、奴隷になっていたということが少なくないのです。お金の持つ魔性でしょう。

  イエスを見れば、イエスはこの魔性に少しもかかっておられない。多くの人に取り巻かれても少しも増長していません。言葉だけでなく、その生活に人々は惹きつけられたのです。

  既に6章9節で、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て…」とありました。悔しいかも知れませんが、21世紀になっても、これが現実です。いや、一層強いかも知れません

  お金自身は必要です。キリスト教はお金を否定しません。だが、もっと金持ちになろうとし、更に激しくもっともっと「金持ちになろうとする」、何が何でも「金銭を追い求める」、この「金銭の欲」。この所から問題が発生します。問題はこの渇いた激しい欲求です。

  どうしてかというと、私たち人間は神に造られた存在ですが、私たちの存在の根本にあり、根源である主なる神を失う時また神を否定する時、神に代えて何かを主にしようとするのです。何かを拠り所にしないでは人は生きえないのです。その為、ある人は金を拠り所にし、別の人は知識や思想を拠り所にし、別の人は世の流行を、ひたすら有名になり地位を築くことをなど、色々なものを拠り所にします。だが、それらは死を前にすればいずれも不確かです。それで不確かさこそ、即ち世は常ならず無常だという無常感を拠り所にする人もあります。

  今申し上げているのは、私たちは何に望みを置くのかです。人の存在の根源である方を捨て、他のものに根拠を置こうとして、それにしがみ付くのです。そこから問題が発生する。金銭の魔性はそこで現われます。

      (つづく)

                                             2015年9月13日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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