違いがあるのは助け合うため


                         モンマルトルの路地で(2)        右端クリックで拡大
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                                                     勇気を与えた喜び (下)
                                                     マタイ13章44-46節
         


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  イエス様が語られたこの譬(たと)えのハイライトは、世にも稀(まれ)な気品溢れる真珠を見つけた商人と、金銀宝石がザクザク、億兆円の莫大な宝を見つけた農夫の喜びにあります。彼らは喜びの余り持ち物を大胆にもすべて売り払って、それらを手に入れたのです。ここに、天の国の譬えの中心、ハイライトがあります、

  イエスは遠い世界のことや遠い昔のことを言われたのでなく、今、ここに来ておられる聖なる神、私たちの間におられる神について語られたのです。更に言うなら、私たちの人生の只中に来られた神の到来を、何とも比較できない発見の喜びとして譬えられたのです。

  十字架のキリストを通して主なる神様を知ること、またキリストの福音を知った喜びは、全てのものを売り払っても惜しくないほど素晴らしいものであり、計算できないほど気高く、美しく、気品溢れる、莫大な価値あるものだということです。

  キリストの福音に接する者は、そういう美しい、気品溢れるものに接しつながるのだということであるということであると共に、真珠を豚に投げてやるな、価値が分からず怒って噛みついて来るとイエスは言われましたが、私たち全ての人間には惜しげもなく神のひとり子をいう宝が、真珠が差し出されているということです。

  この世には、余りにも多くの「あの人が赦せない、この人が赦せない」という人がいます。私だって、何十年経っても吹っ切れない人がいます。ある人たちと話していて、私がこうなったのはあのギャンブル好きの父のせいだ。家族を破産させた父のせいで、自分はこうなってしまったと言っていました。また他の人は、父の浮気がきっかけで、それに母も対抗して浮気し、間にいた自分はこうなった。赦せないと言っていました。だが、自分に注がれるイエスの愛を思うなら、その恨みを捨てて、自分が置かれた畑を買おうとするのではないでしょうか。

  キリストの計算できぬほど尊い、聖なる十字架の愛が与えられている。そうであれば、私たちもこれまで赦せずにいたものを喜びの余り売り払い、赦さずに来た人を本気で赦さねばならないのではないでしょうか。

  もちろん私たちは弱く、脆い人間です。だが、キリストの喜びに与るなら、ため込んだ恨み、つらみ、憎しみを、大胆に背後に捨て、高価で気高い神の国の住人となるために、キリストにある新しい人生を買い取って行く。買い取って行きたいという方向に向かおうとするのではないでしょうか。

  すぐに、すっかり完全には出来ないかも知れません。しかしキリストを仰いで、主よ来て下さい。助けて下さいと祈るのではないでしょうか。

  そして実際そうして、赦せぬ人を赦せば、肩の荷が軽くなり、ストレスが減り、安眠でき、呼吸がしやすくなるのではないでしょうか。

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  最後に、私たちは良いものが手に入ると悪いものを捨てます。だがこの譬えでは、悪いものを捨てたのでなく、良い物を捨てたのです。良いものを捨てることによって喜びを手にしたのです。

  この夏、フランスのテゼの丘に、世界中からこれまで以上の青年たちが溢れました。

  今年は、テゼ共同体の創立者ブラザー・ロジェさんの生誕100年、またテゼ共同体誕生75年、そしてロジェさんが殉教の死を遂げて10年の年で、ブラザー・ロジェというプロテスタントの牧師が始めたテゼ共同体の志から、世界の若者たちが多くのものを学びました。

  ロジェさんが発見した宝物とは、当然のことでもあるのですが、プロテスタントカトリックギリシャ正教など、全ての教派を越えてキリスト教は一つであるという発見です。キリスト教徒の一致は、何百年という長い分裂の歴史の広大な畑に埋もれてしまっていたのです。だがこの宝を畑に見つけ、彼はすべてを売り払って、戦時中、フランスの田舎のテゼの村に来て、命がけでユダヤ人亡命者と政治犯たちをナチの手から助け始め、やがてヨーロッパ、そして世界の分裂の中で和解の徴になり、平和の徴になろうとキリストに生涯を捧げ始めたのです。

  むろん和解そのものや平和そのものにはキリスト以外なり得ません。なっていると言ったらそれは欺瞞です。しかし、小さくても和解を指し示す徴、平和を指し示す徴になろうとし始めた。

  表現を変えて言えば、テゼの働きを通して、やがてプロテスタントカトリックまたギリシャ正教は、互いに対立的でなく、互いに補い合う相補的な存在であろうとし始めたのです。あい補い合う存在です。その時、実りが豊かに生まれます。妻と夫がそうでしょう。男と女が対立的でなく、相補的であり、互いに補い合い、響き合う時、神に与えられた賜物が双方ともに発揮されて行く。違いを、対立的である者として神は私たちを造られたのではない。補い、助け合うためです。そういう和解の場をテゼはつくり出しているのです。

  テゼがしていることは、遠い世界のことでなく、私たちの身近な問題です。

  集まった無数の青年たちは感想を残して再び世界に散って行きました。ある青年はこう書いていました。「戦争と宗教間の争い。去年はロシアとウクライナの紛争。EUヨーロッパ共同体は結局ユートピアかと思った。気持が滅入った。だが、テゼ、ここにヨーロッパ共同体が実現している。」またある青年は、「問題が山積みの世界の中でも、未来への希望がここで見つけることが出来る」と書いていました。テゼ共同体は世界の若者に希望を与えているのです。世界の最先端でいる若者たち、だが希望がない。だがここには未来を拓く希望の徴が、何者かがある。その真剣なあり方が世界の若者を惹きつけているのです。今年は仏教の指導者までテゼに来ました。

  いずれにせよ、私たちの人生の只中に神が来ておられるのです。私たちは神をどのように迎えるべきでしょう。

  農夫も商人も悪いものを捨てたのでなく良いものを捨てたのです。しかも喜びを持って捨てた。良いものを捨てるとは一体どういうことでしょうか。

  キリストは、私たちが良いものだと思っていたもの、良いものだと計画していたものより、もっと良い高貴な宝を私たち一人ひとり、そして人類に用意しておられるのではないでしょうか。そして、神が下さる喜びを喜ぶように招いておられるのではないでしょうか。


         (完)

                                             2015年9月6日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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