元大統領のカーターさん


         パリの凱旋門の前で夕方6時半に無名戦士に捧げるセレモニーが行われていました
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                                                ピラトの前で証しした方 (中)
                                                Ⅰテモテ6章11-16節


                              (2)
  さて青年テモテは、「命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」と言われています。これは、洗礼の時の、教会の多数の人たちの前での信仰の告白を指しているのでしょう。あるいは、彼が伝道者に任職された時の信仰の告白であったかも知れません。

  ここでも彼は、立派に、高貴に、気高く信仰を証ししたと言われています。洗礼の告白は人の前での、神に対する気高い魂の告白です。それはイエスが、「一人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びが天にある」と言われた通り、本人が考える以上に貴いことです。それは永遠の命に与るために神から召された徴だからです。

  その信仰の原点に繰り返し立ち返り、そこに立ち続けなさいと。困難な状況の中でも敢えて耐え忍んでいくこと、しっかりそこに留まって動じないことが、ここでも言われています。

  それは、自分がたった一人でする孤独な戦いでなく、十字架の主が一緒にして下さることであり、既にイエスがピラトの前でなさったことです。ですから、「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、落ち度なく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます」と語るのです。

  キリストはピラトの前で、やはり立派に、気高く信仰を証しされたのです。だからこの方のみ前で、テモテに命じるのです。

  テモテ個人の信仰の証しは、彼の私的なものに留まりません。それは歴史の主キリストがなさったことに固く結びついています。私たちの証しはキリストのなさったことに堅く結びついているから意味があるのです。

  人の前で信仰を証しすることは誰しも難しく感じます。しかし時々、この人には信仰を証ししたいと、この人に福音を知って頂きたい。教会に来て欲しいと思う時があります。その時、勇気を出して、恐れず語りたいと思います。考え過ぎると何もできません。思い煩いは神に預けてすることが大事です。

  マザー・テレサさんが、「私のしていることは大海の一滴のようなものに過ぎない。しかしその大海は、この一滴なしには大海であることはできない」と言ったこととも関係するでしょう。

  高いことを望む必要はありません。イエスと共に地べたを歩めばいいのです。この時代の中を、イエスと共に地べたで、草の根で生きればいいのです。

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  「主キリストが再び来られるときまで、落ち度なく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。」

  やがて再びキリストが来られる。歴史の終末の日を待ち望みながら、美しく生きなさい。その日には、一切の隠れていたもの、秘密にされていたものが明らかにされる。その時まで落ち度なく非難されないように、キリストの「善かつ忠なる僕」として証しして生きなさい。

  アメリカの元大統領ジミー・カーターさんは、90才ですが、肝臓癌が脳に転移したのが4か所も見つかり、脳の放射線治療も始められました。

  そんな中、先週、カーターさんが属する教会で、放射線治療後初めて礼拝前のバイブル・クラスで話をされたのです。30年間話し、今回で389回目でした。今日もありますから390回です。

  元大統領です。ノーベル平和賞を受賞者です。出席教会は1千人、2千人の大教会かと思うと違います。属するのは40人程の田舎の小さな教会です。そこに属し、信徒として30年間聖書から話をして来たのです。

  教会は大きさによりません。大教会だから有り難いのでなく、30人、40人の教会でいいということを雄弁に物語っています。そこで神の言葉を聞いてどう生きるかが大事です。カーターさんはそういう信仰を持った方で、そこにカーターさんの偉さを見ます。

  しかしこの日は、放射線治療後初めての話だと言うので、1千キロ離れた所からやって来る人たちもあり、460人が集ったそうです。何しろご本人は、後、僅か数週間の命だと考えています。この秋にはお葬式が待っている。だが驚くほど平和で、心の平安をもって、「信仰、愛、よい人間関係」という題で話したのです。

  奥様と20才違いですが、2人の間に行き違いがあると、違いが埋まるまで、二人共決して眠らなかったそうです。それ程、ご夫婦の、また人との関係を大事にして来られました。そしてこう話されました。「あなたが間違っているかも知れないと認めることができ、相手が正しいかも知れないと認めることができることだけが、人とのよい関係を生み出すのです。」

  カーターさんは冷戦時代に東西の和解のために働き、また南北の壁を越えて働きました。北朝鮮も対話のために数回訪問しています。政治の舞台でも、国際関係でも、プライベートなことでもこの在り方で生きて来られた方です。

  そして、こうも話されました。「誰でも問題に直面した時は、神の前で頭を垂れて祈って下さい。『難しい問題に出会って困っています。どうか、どんなに重い荷物であっても、担う事ができるように力を与えて下さい。どんな問題が起ころうとそれを担う力を授けて下さい。』」こう言ってお祈り下さいと話されたのです。

  今日の個所が、立派に、美しく、気高くと語っているのは、このように砕かれ、謙(へりく)った生き方以外ではありません。それは、「主キリストが再び来られるときまで」、善かつ忠なる僕であることができますようにという在り方であり、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます」ということを信じるからです。

  青年テモテも私たちもまた大統領も、皆、同じ在り方でいいのです。別に高い所を望む必要はありません。立派な人物や毛並みのいい人間を演じる必要はありません。イエスを待ち望み、イエスと共に地べたを歩めばそれで十分です。

  イエスに忠実であることです。棚からぼた餅が落ちるのを待つのではありません。それは信仰ではない。心を主に向け、与えられる現実の課題を避けず、それに挑戦して、知恵を絞り、工夫して、祈って生きる。それが信仰生活です。

  残暑なのにじとじと雨が続き、少し水かさが増す中でも、カモたちが石神井川の流れを遡って泳いでいます。川の中に目を凝らして下さい。彼らの足はもの凄い勢いで水を掻いています。だが、カモは涼しい顔をしたり、時々は嬉しそうな顔さえ見せながら、水を掻いているのです。それは楽しいのです。面白いのです。愉快だからです。

  私たちも、イエスとの交わりが身につくと、楽しいのです。面白いのです。愉快なのです。イエスに在って課題を担うことが。

      (つづく)

                                             2015年8月30日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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