自分を変えたい。だが変えられない


             これ、ベリブvelibって言います。1日約250円でパリを楽しく乗りまわしました。
                                               右端クリックで拡大
                               ・



                                                ピラトの前で証しした方 (上)
                                                Ⅰテモテ6章11-16節


                              (1)
  今日の個所は若き伝道者テモテに宛てられた言葉です。「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」とあるのはテモテを指しています。

  「神の人」とあるのは、神がかった人とか、神から来た人という意味ではありません。皆さんと同じ、洗礼を受け教会生活をする人はすべて、「神の人」です。神に献げられ、神のご用のために取っておかれた人という意味です。

  その彼に、先週学びましたが、全ての悪の根と呼ばれていた金銭の欲、高慢、妬み、邪推、絶え間ない言い争いなどを「避けなさい」と語るのです。

  「神の人」に、邪推が人一倍強くては困ります。絶え間ない争い好きも、そうでしょう。「避けなさい。」人間の意志、意欲が大切です。避けようと目指すことが大事です。

  昔、何人かで話していて、ある人がスロットにはまってしまったんです。スロットというのはパチンコの兄弟分みたいなもので、裏スロットというのもあるんです。で、その青年はお給料が入ればその日の内にすっかり使ってしまうことさえある。一度儲かったことがあるので、もう少しやったら勝てる、もう少ししたら大きいのが出ると、それですっかりやられるんだそうです。で、これはやばいと言うので、給料もらえば半分を誰かに預けるようにした。そしたら、半分預けたからこれを全部使っても大丈夫と思うんだそうで、安心して半分をその日に賭けちゃうんだそうです。

  悪いのは分かっているんです。でもやめられない。一番自分を傷つけているんです。中学生なら、自分から挨拶するのは良いことだと分かっている。でも急に態度を変えて挨拶したら、自分の心の中がすっかり見通されるような気がして、なにクソッて挨拶しないんです。過去からの自分を変えられない。過去を変えると気前が悪い。これまでの自分の否定、敗北のように思える。自分の心というのは実に扱いにくいんです。これは聖書のローマ書7章の問題ですね。2千年前も今も同じです。

  だが、その問題の自分を越えて行くのが大人になることです。いずれにせよ、「避けよう」と意志することが大切です。

  そして、避けるだけでなく、もっと積極的、建設的に、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と今日の個所は語ります。これらは皆、聞けば理解できるものですが、奥深い内容を持ちます。

  例えば、「忍耐を追い求める」ということを考えると、聖書はギリシャ語ですが、忍耐とは容易に怒らぬこと、怒りから遠く離れること、怒りを延期することを指します。2章には、「男は怒らず、争わず、清い手を挙げて、どこでも祈ることです」とありましたが、そういうことを含むでしょう。堅忍不抜の精神、剛毅さと訳す英語聖書もあります。

  忍耐と親戚関係にある「忍ぶ」という言葉は、ここには忍さんがいますが、ギリシャ語ではしっかり留まること、留まって動かぬことを言います。

  このように「忍耐」と言っても、色々な意味、幅、深さを持っています。

  いずれにせよ、長い世界の歴史の中には、想像を越える幾つもの試練を通して形成されて来た人たちがいます。アブラハムモーセはそういう人でした。どんなことがあっても耐え、変えることのできない全ての情況の中で、敢えて耐え忍んで主を待った人たちです。彼らは、人間は決して絶望のために造られたのではないことを証ししました。Br.ロジェさんは同様のことを書いていました。

  イエス・キリストは何よりもそういう方です。死に臨んでも希望を指し示し、「あなた方はこの世では悩みがある。しかし私は既にこの世に勝っている」、恐れるな、と語って励まされました。

  アブラハムたちに忍耐を授けたのが、「神の人よ」とある、神に献げられた者という自覚です。神の喜ばれる献げものとされているという、先週の言葉で言えば、「現世利益を越えた喜び」です。永遠なるお方との魂の出会いが堅忍不抜の精神を与えたのです。

  次の、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」という勧めも味があります。今日の所に「立派」という言葉が3回出て来ました。12節前半と後半でテモテについて言われ、13節では、ピラトの前で証しされたイエスに関して言われていました。

  「立派」とは、体格や外見のことでなく、高貴なこと、美しいこと、見事なこと、更には気高いことを指します。外見は優れなくても、精神は潔く、高くありたいです。すると人はついて来ます。魂が腐ったり、崩れていれば、外見は立派でも人は自然と離れます。

  ここでは、信仰の戦いを高貴に戦い抜きなさい。美しく、気高く戦い抜きなさいと勧められているのです。単なるありきたりな立派さでなく、キリストの香りが漂うようなことであり、地の塩のような、地味でも味わいのあることです。

  シャチこばって生きよというのではありません。リラックスして自然体でいい。その方がいい。しかし、永遠の命に向かう魂は気高く、美しいこと、高貴なことだと言っているのです。

      (つづく)

                                             2015年8月30日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・