信頼し合った者たちの喜び


           昔、朝早くドゴール空港からバスで凱旋門に着いた時は閑散としていました
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                                                現世利益を越える喜び (4)
                                                Ⅰテモテ6章2-11節


                              (3)
  8節に、「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」とあります。この言葉は消極的に聞こえますか。だが、これは消極的ではありません。ここには、色々の余分なものをそぎ落として初めて成り立つ美しさ。単純で素朴な、生活を美しくする在り方。多くのものを持たずとも、生活を美しくすれば輝くものがある訳で、精神の輝きがあり、魂の輝きのある生活が示唆されています。

  だが、「金銭の欲」。これは昔の表現ですが金貨や銀貨を愛し、それを友にし、仲間にすること。お金に執着することです。質素でも他者に与えて質素なら輝きます。現世利益(りやく)の行き着く先は所有欲であり、自分を義としようとする自力本願の在り方、自己中心な在り方で、そこに悪の根があると言うのです。

  イエスが説かれたのは禁欲主義ではありません。金銭をどう使うか、何に使うか。そこに高い精神性が現われます。食べ物も自分の食べ物は貪欲の問題になりますが、腹をすかした隣人の食べ物の問題ば隣人愛の問題です。

  来週の11節はそれを暗示しています。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。」キリストの健全なみ言葉に耳傾け、それに従順である時、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」が生まれて来る。そしてそこに、平和と喜びが、柔和と優しさが伴い、信頼と和解が作り出されるということでしょう。キリストのみ言葉に従う時そのようなものが生まれて来るのです。

  「食べる物と着る物があれば…」とありましたが、それは質素な生活です。ケチじゃあない。質素とケチは違います。しかし、キリストのみ言葉に導かれる時、見せびらかしや華やかさはなくても、福音の香りが漂い、互いに信頼し合った者たちの喜びが確実に生まれます。キリストに導かれる時、私たちの間に現世利益を越えた美しい喜びが生まれて行くのです。

  モーセに率いられたイスラエル出エジプトを果たし、シナイ砂漠を40年間さ迷いました。最初の宿営地のマラに着くと、そこは焼けつく熱暑と渇きで耐えられず、人々は泉を見つけ、急いで水を飲んだのです。今もこの辺は50度以上になります。だが、マラの水は苦くて飲めなかった。民はモーセに喰ってかかり、こんな水は飲めない、こんな所に宿営できない。どうしてくれるんだと、苦情をぶちまけました。

  その時、モーセは一本の木を神から示され、それを水に投げ込んだのです。するとマラの苦き水は甘くなったと記されています。

  人は天然のままだと多くの苦き本性を持っています。ここに挙げられている妬み、中傷、邪推、言い争いもそうですが、人と自分を傷つける性欲、金銭欲、権勢欲、口論、人を蹴落とす弱肉強食などの本性もそうです。

  本性に、キリストの十字架という棒きれが投げ込まれなければなりません。それが投げ込まれ、キリストの十字架に結びつけられ、砕かれ、本性が止揚される時に、真実のこもった、作り変えられた甘き本性となって働き始めるのです。

  キリストが人生のターニング・ポイント、転換点になって下さる時に、人は新しい人として生き始めるでしょう。ヨハネ福音書で、キリストが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」といわれ、「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」と言われたのは、このことです。

  山手線は内回りも外回りも、年がら年中、グルグル回りをしています。私たちも天然・自然のままの本性では、同じ本性や欲望の周りを延々とグルグル回って、そのグルグル回りは幾ら経っても死ぬまで新しくなりません。自分の手で何とか新しい生活と願っても、池に落ちた人が、自分を救おうとして自分の髪の毛を引っ張り上げるのに似ています。そんなことをしても自分を救い出すことは永遠に不可能です。

  だが、山手線の所々に転轍(てんてつ)機があります。ポイントの切り替えです。あの転轍機が切り替えられると、これ迄どんなに長く出口なくグルグルまわりをしていた者も、そこから新しい方向に向かって力強く走り出すでしょう。

  キリストは人生の転轍機です。その十字架の恵みに出会う時、その愛に触れる時、私たちは今までの自分を越え、新しい生き方へと方向を変えられて進んでいくことができるのです。

  2世紀の初め、教会に集う人々がこれまでになかったキリストにある新しい生活が始められることを願って、この書簡は青年テモテに宛てられたのです。

          (完)

                                             2015年8月23日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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