喜びに満ちた旅人


              シャンゼリゼ大通りのクレープ屋さん。手つきも味もよかったです   右端クリックで拡大
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                                                現世利益を越える喜び (2)
                                                Ⅰテモテ6章2-11節


                              (1)
  こうして今日の個所に入る訳で、最初にこうありました。「これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、 その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。」

  一つ一つの言葉は取り上げませんが、ここで、なぜ、信仰や信心を利得の道と考える者が起こるのか。またなぜ、妬みや争い、中傷や邪推、醜い憶測、推測でものを言い、推測で人をけなし、また絶え間ない言い争いなどが起こるのか。なぜ、高慢が現われるのか。こういうことをどう解決し、こういう問題を抱えた教会をどう牧会して行けばいいのかが書かれています。

  では、それはどうして起こるのか。ここでは、それは異なる教えに振り回されることから起こり、イエス・キリストの健全な言葉、そのみ言葉と業に従うことを止め、福音から生まれる信仰、更には信仰深さや信心深い教えにも従わない所に原因があると語ります。

  どういう事かと言うと、キリストの教えや福音に心から耳傾け、従順に従う時には、神によって義とされる喜びが生まれます。平和が魂に与えられます。すると多くの困難でぬかるむ道でも必要以上に足を取られず、いや、足取り軽く歩めます。悩みがあっても参ってしまわず、悲しみ多くても絶望に覆われず、そう言う時にも他の人を励まし、キリストの約束を堅く信じて、喜びに満ちた旅人として進み行けるからです。困難を抱えて悩み多い夜道を行く時にも、喜びに満ちた旅人です。

  しかしキリストに従順でなく、自分の力で義を得ようとすると、高慢になります。魂の中心にまだキリストにお住み頂いていないので、議論や口論になり、議論に勝とう、論争で屈服させようとして心はやり、上に立とうと絶え間ない争いが生まれるからです。言葉に出なくても心の中で争っています。裁いています。だから必要以上に疲れます。信仰の世界にいながら、まだある種の支配欲、権勢欲が力が奮っているのです。

  こうして5節は、キツイ言葉で、「これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」と述べています。

  「精神が腐る」とは、心の根っこが腐敗することです。腐敗すると悪いものが中から出て来ます。「真理に背を向け」とは、自分こそ真理だとする心の態度です。「信心を利得の道と考える」とは、信仰や信心という精神的領域が損得勘定で考えられ、信仰のことを言いながら現世で得をする道を考えていることを言うのでしょう。

  信仰がうまく機能していないのです。子どもの時に独楽をまわしたことがおありでしょう。独楽は、芯が真直ぐ出ていないとガタガタしてうまく回りません。キリストの真理に心の芯が貫かれていないと、信仰もガタガタになり、生活がガタついてしまうのです。

  夏の楽しみの高校野球が終り、この夏も峠を越えました。早稲田実業が優勝を逃して悔しい人がいたでしょう。1年生の清宮君が打ちまくって東京に優勝旗を持ち帰れなかったのは残念でしたが、彼は1年生です。まだ早い。もっと苦労し、挫折もスランプももっと経験しなければ人間は伸びません。いいお灸になったと思います。

  ところで、どの試合の時か解説者がこんなことを話していました。「大きな試合になればなるほど、どう野球の基本に立ち戻るかです。」県大会、地区大会、全国大会、甲子園など色々ありますが、大きな試合に進めば進むほど、野球の基本に立ち戻る。基本に帰って行く。それが重要だというのです。

  人生や信仰生活も同じです。試練や困難に遭えば遭う程、それが大きければ大きいほど信仰の基本に立ち戻って生きる。

  信仰や信心を利得の道と考える。それはこの基本から外れ、基本に帰らないから起こるのです。キリストの真理が心棒となり、この心棒で心を貫いて頂くものにならなければならないのです。

  そうでないと精神が腐りさえする。心が歪みさえする。するとキリスト者と称しつつ問題を作る張本人になりかねないのです。5節は中々手厳しい事を述べていますが、人生はそんなに甘くないからです。

  信仰や信心を利得の道と考える。そこにないのは仕えると言う事です。低くなって仕えるという事がない。与えるという事、人を純粋に愛することもない。キリストは、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。だが死ねば豊かに実を結ぶ」と語って生きられましたが、利得の道と考えていると、人に仕え、与える喜びの生き方が出て来ません。基本が欠けています。

          (つづく)

                                                    2015年8月23日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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