時々いたずらなさるキリスト


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                                                   向こう岸に渡ろう (下)
                                                   マルコ4章35‐41節
        

                              (3)
  さて、ガリラヤ湖に漕ぎ出したこの嵐の経験は、イエスと弟子たちの実際の嵐の経験であると共に、マルコ福音書が書かれた西暦5、60年頃の、まだ生まれて間もない教会が、現実の世界に漕ぎ出して味わった迫害や試練をも比喩的に示唆したのでないかと言われています。

  初代教会の彼らは、「向こう岸に渡ろう」とイエスに誘われ、勇んで伝道に出掛けたのです。最初はスイスイと順調に進んだ。だが沖に出た時、急に周りが急変し荒れ狂ったのです。その時の困難は筆舌に尽くし難いものがあったでしょう。まさに、「わたしたちが滅びてもかまわないのですか」というようなありさまだったでしょう。使徒言行録に、激しい迫害を受けてエルサレムから散らされて行った初代教会の人たちの姿が書き留められていますが、その後も各地で火のような迫害の猛威が吹き荒れました。

  今日の個所に記された叫びは、湖上の弟子たちの叫びであると共に、世に船出した当時の教会の祈りの叫びであり、試練の中で助けを求めて祈る教会の祈りです。日本の教会の祈りは静かですが、韓国では今も血を吐くような激烈な祈りをします。そういう激しい祈りです。

  教会という舟も、イエスが共にいて下さることを信じて沖に漕ぎ出すが、最初は快調に滑り出しても、後戻り出来ない所まで来た時に、突然嵐に見舞われることがあります。

  その時もイエスが眠っておられ、起きて助けて下さらないように見えることすらある。イエスの復活など幻想でないか、神などやっぱりいないのでないか。そんな考えが起るかも知れません。だがそこでこそ信じて疑わない。そこで「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。滅びてもいいんですか」と呼び起こす。それが信仰です。目に見えない時にも信じて行く。

  イエスは風を叱りつけ、海に命じて凪にし、弟子たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのですが、弟子たちと教会は、ここに歴史と世界に対するイエスの偉大な権威とご支配を告白すると共に、恐怖に襲われ、信仰を失ったようになってしまった自分たちの罪と弱さを告白したに違いありません。

  ただ私は、ここでイエスが目を吊り上げ、カンカンになって弟子を非難し、激怒されたというより、弟子たちの弱さと不信仰、まだ信頼できないでいる彼らに溜息をつき、苦笑されたのだと思います。

  これは私たちと無関係ではありません。私たちもしばしばイエス様から溜息をつかれ、苦笑され、時には苦虫を噛み潰すようなことを仕出かしていると思います。私自身がそうです。恥ずかしい限りであり、それが現実の自分自身です。にも拘らず、忍耐し、憐れみ、愛し続けていて下さるのがイエス・キリストという方です。

  忌々しそうに、また烈火のごとく、イエスは弟子たちを叱られたのではない。その証拠に、先程申しましたが、彼らはその言葉を聞きながら直接その言葉に反応しないで、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったというのですから、イエスの驚嘆すべき神の子としての人格に触れて非常に感嘆し、恐れたのです。

  嵐の中で教会という舟も滅びようとし、全滅の危機に立たされている。だがそう言う中でもイエスが生きて働いて下さることへの驚きであり、信頼であり、悔い改めであり、喜びです。

  こんなことがあり、教会という舟も転覆するかも知れぬ状況に置かれながら、イエスを更に信じ抜いて行くのです。

  そして信じ抜く時に、イエスがどんなに偉大な方かが分かって来るのです。弟子たちは向こう岸に渡ろうとした時に、イエスの権威、力に触れた。冒険の船出をしなければ、これまでより深い所でイエスに出会えなかったでしょう。神と人生の一段と深い真理に触れることはなかった。

  苦難や試練を通してイエスを知る時に、見えぬものが段々見えて来るのです。「狭い門から入れ」と言われているのはそのことです。狭い門を通らず、だだっ広い門からだけ入っていると、肝心の時に力になりません。いくら教会に通っても真理は見えない。

  先週、伝道集会で中村さんのお話しをお聞きして色々考えさせられましたが、私は、言葉と行ないが伴って生きていらっしゃることを学びました。

  実は、終わってから、教会から僅かながら謝礼と交通費を差し上げました。ところが決して受け取ろうとされず驚きました。その上、用意して来た感謝献金を奥様が差し出されて置いて行かれたのです。あのご本への自由献金として献げられたものは、そのまま私たちの教会への献金として下さったのです。重い障害を持ち、決して豊かな方ではありません。本郷3丁目からの往復タクシー代も自腹を切って下さった。伝道集会をして、教会は儲けてるんです。イエスという方は時々、いたずらをされるのです。キリストのいたずらで思い掛けない事が起こりました。

  今、お金のことを申上げているのではありません。中村さんの、「向こう岸に渡ろう」というイエスの呼びかけに応えて、嵐の湖を何回も越えて82才まで生きて来られた生きざま自体のことをお話ししています。

  「40代、50代になれば、一つの教会を動かず、腰を入れて支える信仰者にならなければならない。」鈴木牧師の言葉を引いてそう言われましたが、そのような生きざまで生きる時に、信仰者は一人前の信者に成長し、嵐の海を数々越えて行く信仰者にされるのです。それが中村さんでした。

  自分に安住してはならないと思います。自分という人間に、また自分の信仰に居座っていてはならない。前進をやめ、成長をやめ、満足し切ったり、諦めて停滞しちゃあならない。それはもう死に体の姿です。魅力もキリストの香りも何もありません。

  若さの魅力は肉体の魅力です。だが肉体を越えたところの魅力こそいつまでも残る人格としての魅力です。

  「向こう岸に渡ろう」というイエスの呼びかけに応じたいと思います。私たちそれぞれに、「向こう岸」があるのではないでしょうか。ある筈です。ある人にとっては、それは先程の、「あなた方は、まだ、自分の罪と戦って、血を流すまで、抵抗したことがない。」それが向こう岸でしょう。またある人は、赦せないで来た人を赦すという向こう岸があるでしょう。また、「自分を愛するように、自分の隣人を愛せよ。」真実な愛の心という向こう岸です。情けないが、自分には本当の愛がない。愛に達したい。それがその人の向こう岸です。

  その向こう岸に渡らなければ、渡ろうとしなければ、人生と信仰の新しい発見もできないでしょう。

  弟子たちは呼びかけに応じて船出したからこそ、嵐の中でイエスを新しく発見したのです。

  イエスご自身、冒険のない生活をダラダラなさいませんでした。「私は、昨日も、今日も、また明日も進まなければならない」と語って進み行かれました。前途に十字架が待ち受けていても、最後の最後まで進んで行かれたのです。死の直前まで前進して行かれた。しかし、死に向かって進まれたのではありません。死に向かって進めば、何もないし、絶望を見つめつつの前進です。イエスは死と絶望に向かって進まれたのでなく、死の向こう、復活の明日に向かって、希望の明日に向かって進まれたのです。

          (完)

                                             2015年8月16日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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