湖面の美しい静けさ


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                                                   向こう岸に渡ろう (中)
                                                   マルコ4章35‐41節
        

                              (2)
  この時、「ほかの舟も一緒であった」とあります。数艘(そう)の友船(ともぶね)もあったのです。それで、沖合に出た時、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」

  突然、嵐が荒れ狂ったのでしょう。ガリラヤ湖は山から吹き下ろす突風の名所です。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」単なるびしょ濡れでなく、湖が牙をむき大波となって小舟に襲いかかり沈没しそうになった。

  「しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。」枕とあるのは漕ぎ手が坐る革製のクッションのことです。イエスはそれを枕にして安眠しておられた。多くの群衆を相手にして、相当疲れておられたのでしょうが、嵐の中でも、神のみ手に全てを委ねておられた故の安眠です。自分だけは大丈夫だという意味ではありません。12弟子たちは、この危機をも必ず切り抜けることができると信頼しておられたからです。

  だが、信頼されているのに弟子たちは恐怖の中にいたのです。そして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えたのです。

  ただ彼らはイエスを責めて言っていない。責める思いもあったでしょうが、それが主になって、あの時、船出すべきでなかった。あの時、あなたが誘ったからこうなったなどと言っていません。私たちならいつまでもブツブツ言いかねませんが。

  それは、怒りや責任追及というより、こういう形のイエスへの祈りであり叫びであったからです。

  「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」元の言葉は、溺れるでなく、「滅びる」という言葉です。私たちが滅びても構わないのですか。弟子である私たちが全滅しても構わないのですかと叫んだのです。まさに祈りです。

  すると、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」「黙れ」は沈黙せよですが、「静まれ」は、馬の口に掛ける口籠(くつこ)をかけよという言葉です。言わば風に向かって、口に絆創膏を貼っとけと言われた。表現的に非常に面白いです。すると、風はやみ、嵐は収まり、すっかり凪になって、先程までのことが夢のように思われる程になったのです。満月が出ていれば、湖面は鏡のように銀色に輝き、美しい静けさが辺りを支配したことでしょう。ここに示唆されているのは、大自然に対しても持っておられるイエスの権威です。

  風が止み、凪になると、イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのです。恐怖が起こる原因は何なのか。君たちの心に何があるのか、何故こうも不信仰なのかと問われたのです。

  ところが弟子たちは、なぜ怖がったのか、信じられなかったのかということを考えるよりも、イエスの存在にただただ圧倒されて、「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言」い合ったのです。これが今日の粗筋(あらすじ)です。

          (つづく)

                                             2015年8月16日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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