私はいったい誰?


           マレ地区に残る貴族の館の1つはカルナヴァレ博物館になっています   (右端クリックで拡大
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                                                 私はいったい誰? (下)
                                                 ルカ20章20-26節



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  さてイエスは、受け取った税金納入に使う貨幣を見せながら、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。

  皇帝に属するものは皇帝に払い、神に属するものは神に払いなさい。コインは皇帝が発行したものです。彼の所有するものであり、これが出回っている所はローマの支配下にあります。であれば、「皇帝のものは皇帝に」返していいでしょう。返すべきです。それは彼に払えばいい。

  だが、「神のものは神に返しなさい。」イエスはここに強調点を置いて語られたのでしょう。なぜなら、人は神に似せて造られ、人間には神の像が目に見えない形で内面深く刻まれていると創世記にあるからです。更に私たちは土の塵のような脆いもので作られています。体も心も凄く傷つきやすく、壊れやすい存在です。だが、その中に神の息が吹き込まれ、神の命が刻まれていると創世記にあります。私たちが生きているのは他でもない、神の恵みによってであり、その赦しと憐れみがなければただの一日たりとも生き続けることはできません。聖書はそう語っています。

  前に申しましたが、昔エジプトからシナイ砂漠を渡ってシナイ山に登り、更に北上してアカバ湾に面するタバという所を通ってイスラエルに入ったことがありました。モーセの足取りを辿る旅でした。タバには国境検問所があり、検問でしばらく足止めを食って、1時間ほど待たされてやっとイスラエル側に入国できました。

  検問所を一歩、イスラエル側に入るや驚きました。これ迄の延々と続く砂漠と打って変わって、そこにはナツメヤシの木々が青々と育つ緑の世界が眼前に広がっていたからです。

  ふと木々の根元に目が行きました。何百本かあるその一本ずつ、根元に何とホースが這っていて、給水されていたのです。イスラエル全土の緑化作戦を展開していると聞いていましたが、その徹底ぶりに驚かされました。

  どの木もホースが外されたら、数日で枯死するでしょう。そして実際に枯死した木がありました。その時思ったのは、人間も、もし神様から注がれる命のホースを引き揚げられたら、すぐにも息絶えるだろうということでした。

  「神のものは神に返しなさい。」私たち人間は、神のものは神に返しなさいと命じられているのです。私たちの命も心も魂も、自分のものでありつつ、根本的には神のものです。その源は神に在ります。神に返すとは、神の栄光のために生きるという事です。神のために命を使う。最も大切な使命とは、そのような命の源である根本的なもののために自分の命を使う事です。

  イエスは彼らをジレンマに置かれたのです。だがこれはジレンマであると共に、彼らが選び取る道はただ一つ、神に自分を返していく道だという事です。彼らは、あなたは「真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」と語るのであれば、神の真理を知っている筈ですから、罪に仕えるのでなく、神の真理に生きなさい、自分を神に返して生きなさいと言われるのです。

  神の福音を聞いてそれに根差して生きよ。そこに人間の本当の喜びがあり、そこに溢れ出るような平和がある。そこに永遠の命に至る道が敷かれている。

  カイザルにまさる、目に見えぬ王の王なるお方、神への応答。信仰、希望、愛。神に服従し、神の前に真摯に生きること。それが、あなた方が神に納めるべきものであると言われたのです。

  使命という事を申しましたが、キリストの恵みに触れ、洗礼を受けて新しく誕生した私たちは、その後、教会や世界とどう関わって行くのでしょうか。私たちはキリストに生かされながら、この新しい命をどう使って行けばいいのでしょう。

  ある人は、恵みに与った私たちは、「正しい時間の使い方や休息の持ち方、神に造られた身体の管理、睡眠や食事の守り方、お金の使い方。…また家族や友人たちも神から与えられた賜物であるなら、他者とどのような関係を築いていくか」などを考えるべきだと述べています。

  余りにも細かいあり方を口やかましく言われるのは嫌ですが、余り事細かに指示をするのでなく、それぞれの自由な判断に任せながら、神の栄光のために自分はどう生きるのかを考えたいと思います。それが、自発的に「神のものは神に返しなさい」と言われていることであり、私はいったい誰かということへの答えになると思います。

  神に自分を返すとは、日常の具体的な在り方に及ぶものです。イエスが彼らに語られた言葉は、彼らの罪を明らかにしただけでなく、自分はいったい誰か、どのように生きればいいのかに深い示唆を与えるものでありました。

       (完)

                                             2015年7月26日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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