分かち合う生活


                       ヴォージュ広場で見たパリの街角         右端クリックで拡大
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                                                  分かち合う生活 (下)
                                                  マタイ25章31-46節


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  年々、社会は激しい競争社会になり、朝からスポーツカーでゴルフに行ったり羽振り良くしている人もいますが、多くの人がヒーヒー言って疲れています。疲れたと本音さえ十分に吐けない所さえあります。社長や部長と名刺にあっても、そういう地位にあるからこそ人に言えない苦しみを抱き、時に泣きたくなるような所に立たされ、心は渇き、へとへとになって、そんな苦しみに癒しを求めている多くの人がいます。そういう人たちも、イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」であるとおっしゃっているのです。イエスはどんなに疲れた人にも、「すべて重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と言われたように、重荷を負って疲れた人を私の兄弟姉妹だと呼び、彼らの兄弟姉妹であるのを恥とされないのです。

  人生は山あり谷ありで、時には千尋の谷底を覗き込むような所に立たされます。そんな孤独な一人ぼっちな魂も、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」と呼んで下さるのです。その時、このお方にお応えして行くなら、すがりついて行くなら再び新しい力を与えられるのです。

  イエス・キリストは誰も行かない所に行って、友になられます。自分のような者の所にイエスは来られない。そう思っている人の所にイエスは既に来ておられます。トントンと心の扉を叩いておられます。黙示録3章に、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」とあります。食事は親しい交わりの時です。何でも話せる時です。このお方が共にいて、この方に何でも打ち明け、この方が相談に乗って下さるなら、再び勇気も希望も生まれるでしょう。

  「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」イエスは最も小さい者の一人を「私の兄弟」と呼ばれるだけでなく、彼らにしたのは私にしてくれたことだと、彼らとご自分を同一化されるのです。何と驚くべき福音でしょう。イエスは何と自由なお方でしょうか。

  しかもイエスは、「はっきり言っておく」と言われました。はっきり言っておくとは、ギリシャ語の元の言葉では、「これはアーメンである。アーメン、私は真実に断言する」という意味です。イエスは彼らとご自分の同一化を断言し、彼らにしたのは私にしてくれたことだと語り、貧しい人や苦難にある人と共に生きる在り方、彼らと分かち合う生き方を、人類の歴史の中に拓いて行かれたのです。

  共に生きるという言葉は、今の日本では誰もが使います。しかしその源を遡れば、2千年前のイエスのこの在り方に至ります

  私たちは今日の個所を複雑に考えてはなりません。単純にシンプルになってキリストに従って行きたいと思います。

  イエスが言われるのは、キリストにシンプルに従うとは、人と分かち合う生活をするという事です。何かの壁があっても、それを自分から越えて互いに分かち合う生活。素朴な偽りのない隣人愛の生活をすることです。偽りのない小さな愛の生活。

  教会は色々な側面を持ちますが、この偽りのない小さな愛の訓練の場所という側面も持ちます。どういうことかと言うと、例えば身近なことで言えば、教会は愛餐会をします。愛餐会をするには、食事を作る人々が要ります。食事作りには買い物が必要です。30人程の食事を作るには、日曜の朝の教会での煮炊きだけではできません。前日から煮炊きが必要です。何人かの人が時間を割いて作って下さるのです。

  また食事の盛り付けもむろん必要です。それから食後の洗いものも3、40分かかります。テーブルを出したり、食後テーブルを拭き片づける人も必要です。

  私たちは誰もお店の店員ではありません。皆で手助けし、分かち合って、買い物と準備の煮付けなど、そして日曜日の朝から教会での炊事、そして食後の洗いもの、片づけ。これらを自分から仕事を買って出て、分かち合って行なう。共同作業、それが愛餐会です。

  教会でのこの練習が、家庭でも、他の場所でも生かされるのです。ですから青年時代から教会に入り込んでいる男性は、結婚しても家庭で食材の買い物を始め、食事作りの一端を担えるのです。時には料理も出来るようになるでしょう。

  いずれにせよ、単純にキリストに従う生活は、人と分かち合う生活をする事なのです。

  どんな仕事をしているか、どんな家柄か、どんな家族を持っているかでなく、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」そういう人間としてあなたが生きている時代を生きよ、という事です。

  10年前の8月、礼拝中に殉教の死を遂げたテゼのブラザー・ロジェさんは、こう書いています。「キリストに従って歩む時、あなたは、人々と分かち合う生活、大いなる単純素朴な生活へと必ず招かれるでしょう。この招きは避けられません。」

  人々と分かち合う生活です。そこに、もしかしたら私たちが未だ気づかないでいる広々と広がる世界が待っています。

         (完)

                                             2015年7月19日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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