貧しい発想
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分かち合う生活 (中)
マタイ25章31-46節
(2)
さて、王なる方が玉座から、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われると、右側に分けられた正しい人たちは驚いて、私たちはいつそんな事をしましたか。そんな記憶は全くありません。主よ、いつ飢えておられるのを見て食べ物を…、いつ喉が渇いているのを見て水を…、いつ旅をしておられるのを見て…、いつ裸でおられるのを見て…、 いつ病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうかと、怪訝(けげん)な顔で尋ねるというのです。
彼らは皆、主を見上げて真顔で聞くのです。テレビ出演者のような演技はいささかもない。私たちは思い出せません。一度もそんな事をしておりませんと言って否定するというのです。謙虚そのものです。玉座に就くお方を敬いつつ、自分については謙って率直に尋ねるのです。
私たちは心優しい人でしたとか、憐れみを忘れず生きて来ましたとか、ひと言も言いません。本当に私たちは何もしていません。そんなことをした覚えがありません。めっそうもない。あなたからそんな事を言われる筋合いはございません。人違いでしょう。何かの間違いでしょうと言うだけだというのです。
すると玉座の方は微笑み、実に優しい面持ちで、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えると、イエスは話されたのです。
この言葉に驚く人がおられるのではないでしょうか。私は驚きます。というのは、あなた方は生前、洗礼を受けた人たちですとか、教会に熱心に通った人たちです、聖書を熱心に読んだ人たちでした、神学を勉強した人たちでしたなどと、ひと言もおっしゃらないからです。そういうことを基準になさらない。そうではなく、ただ一言、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と語られるのです。
今にも滅びそうな、いと小さい者への労りであり愛です。しかも気づかずにした小さな愛であり、親切です。このような者を、玉座にあるお方は、羊飼いのように右側にお分けになって言われたのです。
これは実に深く考えさせられる言葉です。また、キリストに従う者はよくよくこの話を考えなければならないでしょう。
ある日本の神学者はここを注解して、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」というのは、初代教会の伝道者を指していると書いています。「この最も小さい者の一人」は無一物で伝道し、空腹で、喉の渇いた、旅の途中にある伝道者を指すというのです。
何たる頭の固い、貧しい発想かと思います。そんな風に伝道者に限定して理解すれば、伝道者に対して奉仕することは神に喜ばれる事なんだという事にはなるでしょう。だが本来の広がりが失われ、日本のキリスト教は痩せ細り、味もそっけも驚きもないものになって、日本人から吐き出されてしまうでしょう。それはイエスの譬えの趣旨ではない。むろん困難な状況に立たされている伝道者にすることは良いことでしょう。しかし強引に教会関係者への奉仕に結び付けるのは無理があります。それは福音を余りに狭くとらえる福音の矮小化です。折角の聖書の命を殺(そ)ぎます。イエスは、私たちの耳が疑うような言葉を語られているのです。
私たちは、この譬えが語るような最も小さい人たちをキリストの兄弟姉妹と見たことがあるでしょうか。私たちがどうであろうと、イエスは疲れ、困り果て、倒れそうな、孤独な、いと小さな人をご自分の兄弟姉妹と呼ばれるのです。
(つづく)
2015年7月19日
板橋大山教会 上垣 勝
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