本当のことが明らかにされる


                         マレ地区のショーウインドー
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                                                  分かち合う生活 (上)
                                                  マタイ25章31-46節


                              (序)
  マタイ25章には、最後の審判を暗示する「10人の乙女の譬え」と「タラントンの譬え」、そして今日の「すべての民族の裁き」の3つの譬えが語られています。しかし今日の個所は譬えですが、まるで終末に起こる現実の事柄のように語られています。

  いずれにせよ最後に神が、人類全てを審判して下さると語るのです。それはある者には真実が明らかにされる裁きですから決定的な慰めの時であり、他の者には恐怖ですが、神は正しい尺度を持ってお裁き下さる。それは本来胸のすくような喜びの時であり、黙示録7章によれば、「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである」とあるような、苦しみが終わり慰めと安堵が訪れる時だという事です。

                              (1)
  先ず、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあります。黙示録と違って、神でなく人の子キリストが栄光の座にお着き下さり、すべての国の民、世界の人たちが集められて裁かれるとあります。

  全世界の人々です。キリスト者だけでなく、仏教徒神道の人も、無宗教の人も、ユダヤ教徒イスラム教徒もヒンズー教徒も、アニミズムの人も、例外なく全ての人が、真実が明らかにされるためにキリストの前に集められるのです。

  そして羊飼いが羊と山羊を左右に選り分けるように、いかに数が多くても一人ひとり個別に判断し分けられるのです。

  これは恵みであると共に、真面目にまた真摯にさせられることです。キリストは十把一絡げでなく、一人ひとりに出会い、一人ひとりの事情に従ってご覧下さるのです。親の七光りとか、夫や妻に免じてではありません。だから私たちは家族一人ひとりがキリストに出会ってもらいたい。キリストの愛と赦しに免じてですが、一人ひとりがみ前に出なければなりません。

  そして左右に分けて、「王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』」とあります。

  右側の人たちは、神に祝福された人たちです。王座にあるキリストは、さあ、ここに来て下さい。永遠の昔、天地が造られた時から、あなた方のために神が準備しておられた国を受け継ぎなさいと言われるというのです。それほど遠い昔から、神はあなた方のために国を整え用意しておられた。あなた方はそれほど心を込めて愛され、祝福されていると言われるのです。

  そして、「 お前たちは、わたしが飢えていたとき…、のどが渇いていたとき…、旅をしていたとき…、 裸のとき、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とありました。

  飢えは恐ろしい事です。昔アフリカのビアフラで飢餓が襲った時、恐ろしい光景を見せられました。日本では飢えがないと思われがちですが、独居老人や厳しい貧困家庭で飢え死にする人が出ています。砂漠での喉の渇きも命の危険があります。旅人の不安は宿がないことです。野宿はロマンティックに見えますが、荒川の土手の草むらで、夜空を仰いで寝て見れば分かります。誰も来ないと分かっていても誰かに襲われ、野犬に喉を食いちぎられないかとおちおち眠れません。2千年前のパレスチナではもっとそうだったでしょう。着るものがなく裸である頼りなさ。砂漠地方では夜、急激に気温が下がります。下着一枚でも助かりますが、それも質に取られていればその寒さをどう凌げばいいでしょう。牢屋に入れられれば孤独です。支えてくれる人がいればいいが、誰も気づかってくれる人がなければ、絶望と虚無感に襲われるでしょう。存在に耐えられない淋しさが襲います。今、薬物中毒から抜け出しつつ青年が言っていましたが、彼は2回刑務所に入りましたが、誰も面会がなく実に寂しかったそうです。だが時々母親の手紙があってそれが唯一の慰めだった。今、認知症が進むが、母だけには親孝行しなければいけないと思っていますと言っていました。たとえ何かの悪事を働いたと言え、獄中の人も私たちと全く同じ生身の人間です。

         (つづく)

                                             2015年7月19日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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