この世で一番腹を満たすパン


                          マレ地区を散策しました                  
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                                                  莫大な相続財産 (下)
                                                  ルカ20章9-19節


  繰り返しますと、自分たち指導者が、イエスは不合格だ、落第だと言っているのに、神はイエスを隅の一番重要な親石にされると、詩編が預言していると言われて、いきり立ったのです。

  反対から言えば、イエスは十字架で殺され、この世から排除されます。だが、神はイエスを隅の頭石とされると書かれていると言われたのです。誰がこの石を排除しても、神はこれを用いたもうと語られたのです。

  これは、目先の勝敗に生きるな。永遠なるお方の前で、このお方の裁きに堪え得るものであるかどうか、そういう究極的な次元に立って生きなさいと言うことでもあります。

  イエスは祭司長や学者らによって捨てられますが、最後的には世界を建てる一番重要な親石とされるのです。祭司長や律法学者など、世の宗教者たちは自分の主義や主張、自分の計画を貫くために、神の最も愛される方を迫害し、殺してしまう事さえある。だが、捨てられたイエスという石は、世界という建物全体を支える堅固な隅の親石となると言う事です。

  更にこの譬えは、人間が、神の莫大な相続財産であるこの地球や全世界を自分のものにしようとすることに対し、「否」を語っていると言ってもいいでしょう。人が神より前に出て、この世を我がものとして支配しようとすることへの否です。

  その時には、言わば巨大な石が人類の頭上に落ちかかったり、反対に人類が固く過酷な石の上に打ちつけられ、粉々にされたり、煎餅のようにペシャンコにされてしまう事が起こると言う事です。人類は、主人である神からこの世界を横取りしてはならない。そんな事は決して成功することではない。そんな事をすれば必ず滅ぼされてしまうでしょう。

  と言っても、イエスは、理性やこの世の知識をフル活動して世界を建設してはならないと言っておられるのではありません。この世の科学的知識を総動員して医療に従事したり、商取引や経済活動をすることを止めなさいとも言われません。そういうものを全くやめ、田舎に引きこもって単純な農耕生活をしなさいとか、努めて信仰だけに生き、他は捨てなさいと言われるのではありません。「同調して来ない主人とは分かれなさい」など、そんな事は決して言われません。そういうキリスト教まがいの宗教がありますが、イエスはそんなことを言われません。

  ある人は、「思い煩いの解決には、生活の重心の移動をしなさい。注意を向けるべき中心を移動しなさい。優先順序を変えなさい」と言っています。生活の重心の移動です。私たちは沢山の事を思って思い煩いますが、ただ一つ必要な事に心を向ける事が大事なのです。

  それはこの世に背を向けるのでなく、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」ということ。隅の親石に人生の中心を置き、そこに根を降ろして生きなさいと言う事です。

  朝ドラというのは殆ど見ていませんでしたが、何かのきっかけで、「製パン王。キム・タック」という韓国の連続ドラマを見ています。主人公のキム・タックを含む4人がパン職人になる試験を受けるのですが、第1次試験で、「この世で一番腹を満たすパンを作れ」という試験問題が尊敬する親方から出されます。

  同じ屋根の下で暮らしながら夫婦間がうまくいかず、敵愾心(てきがいしん)があり、浮気や、浮気でできた腹違いの兄弟、後継者の争いなど筋が複雑ですから省きますが、主人公のタックは、その試験問題に対して、麦やトウモロコシをパン生地に入れてパンを焼くのです。出来あがったパンは地味で見栄えはありません。しかし風味がよく、口触りも良く、人々の、特に貧しい人たちの口にとても馴染んで、食べやすく、好まれるパンでした。

  主人公は、何日間かの1次試験の過程で、色々な込み入った事件に出会いますが、私の言葉で言えば、主人公が関わる人たちの間に、彼はまだ若いのに、これまで引きずって来た競争と憎しみ、疑いと戦いでなく、愛を生み出し、信頼を作り出す命のパンのような存在になって行くのです。憎しみや争いが次々起こるのですが、主人公が思い掛けない出来事で色々変えられて、彼の存在自身が、人々の中に精神的に腹を一番満たすパンになって行くというストーリーでした。

  イエスは地味です。華やかではありません。しかしこの世で一番人々の空腹を満たす命のパンになられました。ストレスの多い現代社会ですが、イエスは私たちの心の渇きをうるおし、私たちの心を喜びで満たす日々の糧となって下さる方です。私たちに希望を与えて下さる方です。競争社会ですが、やはりそこに生きるのは人間ですから、最後は愛が勝利するのです。家造りらの捨てた石が、世界の隅の親石となるのです。イエスがその隅の親石です。

  イエスは、争いと競争、疑いと敵愾心の逆巻く世界にあって、絶望せず、神の国と神の義とを中心にして生きなさい。それに信頼して生きる人になれとおっしゃるのです。そしてそれに信頼して生きる人たちに、世界を委ねられるのです。

  神から世界を簒奪(さんだつ)しようとする人たちにではなく、神に信頼して生きる人たちに心の平和、神への信頼という莫大な財産を相続されるのです。それがある時に、人は苦難にも耐え、耐えるだけでなく希望を与えられ、志を捨てずに、大胆に前進できます。イエス・キリストこそ私たちの隅の親石になって下さるのです。

  最後に、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」のです。人間的な狭い了見の世界で生きるならば、真理はありません。そこには人への恐れだけがついて回ります。


       (完)

                                             2015年7月12日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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