捨てられた石が隅の親石になる


                  アウシュヴィッツに送られたレジスタント一家を偲ぶ碑
                              ・



                                                  莫大な相続財産 (上)
                                                  ルカ20章9-19節


                             (1)
  今日の所には、邪(よいこし)まな小作人たちが登場します。譬(たと)えですからいいですが、とんでもない小作たちで色々なことを考えさせられます。16節に、「そんなことがあってはなりません」と、民衆が言ったとありますが、実際にはあってはならない事件です。

  この主人は神のことで、農夫たちはイスラエルの指導者たちです。彼らは神から、イスラエルという神のブドウ園を託されたのです。送られた僕は預言者たち、息子はイエスを指しています。

  収穫の時期になり、主人は、彼らに農園の収穫を納めさせようとしたのです。社長はどれだけ収益が上がったかを知るのは当たり前ですし利益を手にするのは当然です。

  ところが小作たちは収穫だけでなく農園そのものを奪おうとして、言わば会社を乗っ取ろうと主人が送った僕たちに乱暴を働き、次々追い返し、遂に最後に送られて来た主人の息子、愛子を殺してしまった。利益の一部をかすめ取るのでなく、農園ごと自分たちのものにしようとしたというのです。社長の息子を殺して会社の乗っ取る。まるで映画のストーリーですね。

  「袋だたき」とありますが、これは元々動物を叩きのめし、皮を剥ぐことです。荒々しいですね。インディアンの中に頭の皮を剥ぐ種族があったと言いますが、主人が送った僕の皮を剥いだか、叩きのめしたか。袋叩きにして送り返した。

  「侮辱して」とあるのは、原語では正当な価値を認めないこと、卑しめ、辱めることです。主人が遣わしているのにそれを認めず、侮辱したのです。

  これだけでもならず者集団と言われるにふさわしいでしょう。ところが「私の愛する息子」なら敬ってくれると思って遣わすと、彼らは頭を寄せ合って相談し、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、農園の外に放り出して殺してしまった。主人は暴君でないのに死刑になりそうな一揆、暴動をしでかしてしまった。

  主人は実に甘いですね。私たちなら最初の僕が袋叩きにされて追い返されたら、2度と起きないような厳しい手を打つでしょう。そうではありませんか。

  ある知人が良からぬ何かで失敗し、親に借金を頼みました。親は渋々ですが貸しました。だが、それが2度続いた時、親はある会社の社長でしたが、息子に全く背を向けてしまったそうです。それで兄貴から借りた。しかし兄貴にもう一度貸してくれ言うと、兄貴もソッポを向いたそうです。冷たいのでなく、それが息子への愛であり、弟への愛だと思ったからです。真摯な愛は時に断固たる拒絶を含みます。人を育てるには拒絶だけでは駄目ですが、拒絶され困らなければ人は育ちません。

  ですから、この主人は甘いと思います。ただこれは譬えなのであって、この譬えが言いたいのは、主人は農夫たちをそこまで信頼していたと言う事です。こんなことが起こる筈がないと信じて疑わなかったという事です。

  神はイスラエルに対し、ご自分と契約を結んだわが民がそんなことをする筈がないと全く信頼し切っておられたと言う事です。忍耐して、何度も預言者である僕たちを送り、最後に愛子を送ったのは、愛は情け深く、苛立たず、忍耐強いことを示す、人間に対する神の愛の証しでしょう。民との契約から神は絶対真実を貫かれたのです。だが、人間の方は感謝も応答もなく、彼らの皮を剥ぐほどに叩きのめし、侮辱し、最後に送られて来た愛する息子も殺して主人に反旗を翻し、農園を乗っ取ろうとした。もう無茶苦茶な話しです。

  そこでイエスは、では「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか」と民衆にお尋ねになり、「 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」とおっしゃった。すると彼らも、「そんなことがあってはなりません」と答えたのです。

  当然でしょう。今なら刑事事件として告訴されてから裁判でしょうが、昔ですから直接手を下すでしょう。それで民衆は、「そんなことがあってはなりません。」そんな残酷で、無茶苦茶な、無秩序が断じてあってはならない。私たちも容赦しませんと言ったというのです。

                              (2)
  すると、イエスは彼らを見つめて、「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と言われた。詩編118篇の引用です。

  イエスはしげしげと彼らの顔を見つめて、民衆が理性を持ち、正しい判断を下す人々であり、考える力や良心を持っていることを確認されたのでしょう。

  それを確認してから、「じゃあ、こう書かれている事はどういう意味か」と、民衆だけでなく、そこにいた律法学者たちや祭司長たちにも、詩編118篇の言葉について問われたのです。すると、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」というのです。

  「家を建てる者」とはプロの建築家、大工の棟梁です。彼が、この石は要らねェ、こいつは資格なしだ、落第だ、不合格だと、切り捨てたというのが「捨てる」という言葉の元の意味です。また、「隅の親石」とは、石造りの建物の隅の角に置かれる重い巨大な石の事です。日本では普通に見られません。お城の石垣にそれがありますが、石垣は傾斜がついているからそんなに巨大な石でなくてもいいですが、それでも他の石と比べれば巨大です。建物が大きくなればワン・ボックス・カーほどある巨大な石になります。それを建物の隅に置くことで、建物がずれない様にします。この巨大な石が建物全体の力を受け留めるので、崩れないようです。

  所で、この巨大な固い石の上に落ちれば、柔らかな土の上と違って、誰でも「打ち砕かれる」でしょう。元の言葉は、全身の骨が粉々に砕かれること、滅茶苦茶に潰れることです。打撲や捻挫ですみません。全身が骨折したり、頭蓋骨が割れたり、骨が突き出る程になることを指します。

  またこの巨大な石が落ちかかれば、「押しつぶされてしまう」とあります。この言葉は、塊であったものが粉々に粉砕され、ペシャンコになることです。

  「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」とあります。何に気づいたのでしょう。

  彼らが、たとえ祭司長や律法学者などユダヤ社会の指導者がイエスという石を捨てても、神はイエスを隅の親石とし、イエスの上に社会を築こうとしておられると、イエスが言われたことは神への冒涜だと考えたからです。更にまた、主人に反抗し、主人の愛子まで殺したブドウ園の譬えの農夫たちは、自分たちのことを指していること。イエスは自分たちに当てつけてブドウ園と農夫の譬えを語った事に気づいたからです。


       (つづく)

                                             2015年7月12日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・