離婚した彼女と再婚しました


                         パリ最古の建物サンス館1475-1507      (右端クリックで拡大
                               ・


                                               甕(かめ)とブドウ酒の譬え (4)
                                               エレミヤ13章12-27節


                              (4)
  エレミヤ13章はここで終わります。だが私は申します。誰もエチオピア人の肌も豹の斑点も変えることはできない、だが、神は変えることがお出来になります。イエス・キリストの十字架、その血による贖いの恵みは不可能を可能にします。死人の中からのイエスの復活。その新しい創造を誰も阻むことはできません。キリストによって、聖霊が新しい世界を拓いて行かれるのです。

  だがエレミヤは、悪に馴れた君たちの真っ黒な罪は清くなるとは言いません。むしろ、「わたしはお前たちを散らす、荒れ野の風に吹き飛ばされるもみ殻のように。これがお前の運命、わたしが定めたお前の分である、と主は言われる。」もみ殻のように飛ばされ、歴史の闇の中に消え去るのがこの国の定めだと言います。

  「お前がわたしを忘れ、むなしいものに依り頼んだからだ。わたし自身がお前の着物の裾を顔まで上げ、お前の恥はあらわになった。お前が姦淫し、いななきの声をあげ、淫行をたくらみ、忌むべき行いをするのを、丘でも野でもわたしは見た。災いだ、エルサレムよ。お前は清いものとはされえない。いつまでそれが続くのか。」

  「わたし自身が」という言葉が強調されています。人間がこの国の恥を晒すのではない。主なる神が、世界の前でお前の着物の裾をまくり上げ、国の裸の恥を暴露すると言うのです。神がされるなら誰も阻止できません。

  国は歴史の闇の中に葬り去られると言うことです。神ご自身がイスラエルを選んでその歴史を始められたが、今、同じ神がこの民を歴史の底知れぬ闇の中に重い岩石を投げ込むように投げ込まれるのです。

  最後の節の、「災いだ、エルサレムよ。お前は清いものとはされえない。いつまでそれが続くのか」という言葉は、我が子を失った親のように、愛する者のために嘆く神の悲痛な叫びです。断腸の思いの神の叫びです。

  イスラエルも罪人も亡びざるを得ないのでしょうか。亡びざるを得ないのです。それが旧約聖書の結論として語ることです。

  では、再生はないのか。もはや死んだままか。エレミヤは微かな可能性を31章で語っています。やがて、一人ひとりの心に神の言葉が記される時が来る。そこに救いの出口があり、解決の糸口がある。新しい契約の預言です。

  今日の27節もそれを示唆します。新共同訳でははっきりしませんが、ある英訳は、「お前が清いものにされるまで、どれ程長い年月がかかるだろうか」と訳しています。非常に長い年月がかかるかも知れない。だが、やがて清くされる時が来ると預言しているのです。そう読めば新共同訳もそんな意味に読めます。

  人間は不思議な生き物です。ある方が、学生時代から約10年間交際していた女性とやっと30才頃に結婚しました。長い交際でした。だが、結婚すると暫らくで衝突したか、嫌になって離婚してしまった。完全にぷっつり切れました。ところがその後10年して、また同じ女性と再婚しました。また一から始めたのです。そんなことが私たちの、身近にもあるのです。

  人間ですら、一度離婚した妻と再婚する自由を持っています。ましてや真に自由なるお方は一度突き放し、歴史の闇に沈めてしまわれても、愛ゆえに再び呼び戻す自由を持たれない筈がありません。1から再び始めて下さらない筈がない。主なる神はそれがお出来になります。

  ただその時には、神に応答する人間は、確かな、真実な礼拝者となって従うでしょう。否定を媒介して焼きが入ったような確かさを持って神に応答して行くでしょう。

  先程のご夫婦もまさにそういうカップルになっておられます。皆さんのご存知の、A教会に行かれたA先生夫妻です。何と未信者だったご主人はAに行ってから礼拝に出始め、暫らく前に洗礼を受けられたのです。まさに真心をもって応答されました。今、水を得た魚のようにその地で自由に泳ぎ回っておられます。この教会で結婚式を挙げられたカップルとして、こころから嬉しく思います。

  神は、イエス・キリストを十字架で殺してまでして和解を成し遂げて下さったのです。イエス尊い命と十字架の血に免じて、罪と汚れにある者を再び神の子として迎え、一人ひとりの心の板に神の十字架の恵みの言葉を刻みつけて下さるのです。それが新約聖書の語る福音です。

  東北の知人に合計20年9カ月刑務所にいた人がいます。母は美容師ですが、父も祖父もヤクザで、彼もヤクザ。ただ彼は今、足を洗う元ヤクザです。1本指がありません。組長や兄弟分の前で1度指を詰めたのです。謝罪のためです。彼は皆の目の前で、自発的に刃物で指を切断したのです。

  神は私たちを救うために、言わば指を詰めて下さったのです。そう聞くと、思わず胸が詰まります。キリストの十字架の死はいわば神の詰め指です。むろん神は謝罪される必要はありませんが、救いようのない私たち、自分に責任を認めず他の者に責任を転嫁して生き、神にさえ責任転嫁するような心の曲った者を救うために、身代わりになって謝まり、鋭い刃物で指を詰めて下さった。いや、指どころでなく、キリストはご自分の体を十字架に磔にして下さった。

  いずれにせよ、新約聖書はこのような神の溢れるような、私たちへの熱い愛を語っています。激痛を伴う痛みある愛です。その時が、非常に長い年月の後に必ず来ると、エレミヤ13章27節の最後は語るのです。

             (完)

                                             2015年7月5日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・