酔っ払って罪が楽しく


                         あの日あの時は12時40分でした。     右端クリックで拡大
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                                               甕(かめ)とブドウ酒の譬え (1)
                                               エレミヤ13章12-27節


                               (1)
  先週に続き、今日は12節以下ですが、ここでは「甕(かめ)とブドウ酒の譬(たと)え」が語られます。「イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ」と。すると、彼らは、「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」というだろう。

  何か非常に反抗的ですね。友好的でない。そんな事は分かっている。大の大人に、そんな子供っぽいことを言うな。色々難癖をつけてイスラエルは素直に耳を貸さないというのです。先週はその罪が、ボロボロになった麻の帯の譬えで示されましたが、今日は甕とブドウ酒の譬えで語られます。時代は先週と同じ紀元前600年頃、南王国の滅亡寸前のものです。

  そこで神は13節以下を語られます。「『見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす。 わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす』と主は言われる。」

  甕にはブドウ酒が入れられます。ブドウ酒を注ぐには注ぎ口のある甕は最適です。甕にはブドウ酒。客たちに甕から注がれます。同様に人の心という甕には神の恵みを満たすべきです。良いぶどう酒である、神の愛、憐れみという尽きない恵みを溢れるほど満たし、神への感謝の香りが馥郁と香り出るようにして注ぐべきです。人の心はそのためにあります。

  だが、イスラエルは罪で満たしてしまったのです。神への反抗で満たしてしまった。「そんな事は、分かっている。」その心、態度が問題なのです。素直でなく、従順でなく、反抗的である。

  「酔いで満たす」とありましたが、人の罪が心という甕に満ち、満ちて自分の罪に酔っぱらいます。酔っ払えば高ぶり、傲慢になり、酔っ払っていますから罪を罪とも思わず、むしろ罪が気持よく、罪が楽しく、罪にうっとりし、うぬぼれる。それが人間ではないでしょうか。

  ここにはユダの繁栄の歴史が背景にあるかも知れません。ほぼ10年後に滅亡が迫っているのに過去の成功を鼻にかけ、自分の才覚や努力を誇り、いまだ傲慢なままで自信たっぷりです。それが落とし穴だと気づかない。

  しかも今ある富は現在のエホヤキン王の功績でも何でもありません。先祖の功績です。即ち家柄と遺産、王家という遺産の上に胡坐(あぐら)をかいて威張っているだけで、既に落とし穴に両足を乗せているのに気付かないのです。

  日本の教会は古くてもたかが160年ですが、そういう教会の中に、まるで長い由緒ある歴史であるかのように誇る人たちがあります。しかしそんなちっぽけな由緒や歴史では福音伝道は進みません。福音を、今生きることによって以外、福音は前進しません。

  今、教会が、信仰者がどう生きるかが問われているのです。歴史をむやみに誇るなどとんでもない思い違いで、パイプオルガンが教会に鳴り響いてもダメでしょう。むしろ個々のキリスト者が歴史の中をどう生きたかに学ぶべきです。私たちは8月にAさんをお呼びするのもそういうためだと思っています。酷い障碍を持って、「今」を生きて来ました。

  エルサレムの全ての住民が罪のブドウ酒で酔っ払い、酔っ払って互いに争い、破壊し合い、「人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と、14節で主は言われるのです。成功を鼻にかけ酔っ払っている。その足元で兄弟喧嘩し、親子が争う。そんな国は立ち行かない。

  この個所は創世記を思い出させます。その3章で蛇は、善悪を知る知恵の木の実を食べると、「目が開け、人は神の如く善悪を知るものとなる」と言って誘惑します。「神の如くなる。」これは私たちの姿ではないでしょうか。神の如くなれば、もはや神に聞く必要はなくなります。自分の腹に聞けばいい。神は不要で、自己だけでいいのです。現代文化はそうではないでしょうか。だが、それが行き詰っています

  神の如くなったアダムとエヴァ。アダムは「それは、あなたが一緒にさせたあの女が私を誘ったからです。」エヴァの責任ですと言います。それだけでなく、元はあなたが一緒にさせたからだと言いたげです。エヴァの方は、私を騙(だま)した蛇の責任ですと蛇に責任転嫁します。男も女も自分は悪くない。すべて他の者の責任なのです。「兄弟が、父と子が、互いに打ち合い、裁き合い、砕き合う」とはその事です。自分の責任を認めず、他を責める。そこに戦争の始まりがあります。すべての責任転嫁は戦争の始まりです。

  今の日本はこの点で危険です。憲法をこう解釈するのは、どこそこの国が悪いから、危険だからと、責任を皆、向こうに押し付けて、戦争が出来る国にしようとする。こんな言い方が大っぴらに通る時代はもの凄く危ないと思います。

             (つづく)
                                             2015年7月5日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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