私の誇らしい冠


                        搭上からセーヌの上流を臨む        (右端クリックで拡大)
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                                                  私の誇るべき冠 (下)
                                                  エレミヤ13章1-27節


                              (2)
  そこで、主の言葉が彼に臨みます。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。……」

  麻帯の強さ、それは同時にユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を意味していたのです。本来は神の都エルサレムもユダも、傲慢でなく、神への信頼の強さを証しし、神にとって彼らは誉れ、誇り、輝く冠を意味していましたが、その使命を失い人間の傲慢と化してしまったのです。

  信仰を劣化させる最良の方法は富ませること、あるいは成功させて有頂天にさせることです。反対に富に置かれても劣化しない信仰者は真の信仰者と言えるでしょう。パウロは富におる道も、貧に処する秘訣も心得ていました。

  こう神は言われます。「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と。

  神に聞き従うことを拒み、心を頑なにした。また異教の神々に仕え従った。その結果、この帯のように強靭であったが、今や全く役に立たないものに変わり果てたのである。Uselessなものになり存在意義を欠いてしまったのです。

  元来、神は、この民を、帯のようにしっかりその腰にお付け下さったのです。神はイスラエルを愛して、ご自分の身に堅く結びつけ、肌身離さず歴史の中を歩んで下さったのです。

  出エジプト記などにエフォデや胸当てが登場します。エフォデには極めて硬いアピスラズリの宝石2個に12部族の名前が彫りつけられていました。更に胸当てにはルビー、トパーズ、エメラルドなと12部族を象徴する12個の宝石で飾られていました。祭司はそれらを胸に付けて神の前に出たのです。神が全イスラエルをご自分に結び付け、堅く刻みつけ、覚えて下さっていることの象徴でした。

  イスラエルは神の「宝の民」です。彼らは誰よりも大きかったからでなく、最も小さく貧弱であったが、神が選んで宝の民とされたのです。モーセを通し、イスラエルと結ばれた契約は、神の真実で情熱的な愛以外の何ものでもありませんでした。

  「時速4kmの神」という本があります。歴史の中を歩む神の速さは、時速4kmだというのです。それは出エジプトを導かれた神の速さであり、民の歩みの速さです。主なる神は人の足の速さに合わせて時速4kmでお進み下さったのです。

  高速に乗れば時速100kmで飛ばします。新幹線は時速300kmでしょう。しかも今、更に早いリニア新幹線は時速500kmで運転する計画です。だが神は時速4kmで歩まれるのです。余り早く進めば、体ははやく進んでも、魂を置いてきぼりにしてしまいます。今の社会は、物質を求めるのに忙殺され、魂を置いてきぼりにしていないか、よく考えなければなりません。

  教会も個人も、失われた1匹の羊、失われた一人の魂を置いてきぼりにしちゃあならない。魂とは神の霊であり、信仰のスピリットです。置いてきぼりにするのでなく、共に悩み、共に苦しまなければならない。それが神の民の誉れです。

  この夏にお話し頂くある教会のAさんは介護が要る重い身体障害者ですが、結婚し自宅で母親の面倒をずっと見て来られました。もっとお若いと思っていたのですが、今、80才過ぎの方です。

  1才の時にハシカで両手両足に重い障害が残り、ご自分で食事も出来ません。小学校の時に就学猶予になって一度も学校に行っておられません。でもカルタか何かで字を覚え始め、漢字も覚え、子どもの頃から日記をつけておられました。

  口に筆や鉛筆をもって、こうして日記を書いて来られたのです。年を取って歯が抜けて、今は唇にスプーンを挟んでパソコンのキーを叩いて文章を綴っておられます。そんな重い障害ですが、結婚し、素晴らしい2人のお子さんを育てられました。

  今から約20年前、この方のお母さんが89才の時に脳内出血で倒れて重篤になり、でも自宅で介護しようと言う事になったのです。大変ですね。すると大学卒業を控えた息子さんが、自分は卒業単位をわざと落として、留年しておばあちゃんの手伝いをしたいと言いだしたのです。

  身障者であるこの方にも奥さんの手伝いが要るので、若者の手が必要でした。就職活動の時期で金融機関のパンフレットなどが次々届き、おばあちゃんを手伝う息子さんを見ながら、知人はやきもきしました。

  医者は、そんなに長くはないと言いましたが、おばあちゃんは丈夫で療養が予想以上に伸び、息子さんを案じて知人は悩んだ末、息子さんに「お前は就職しなさい。明日役所に行っておばあちゃんをどこかに入れてもらえるようにかけ合って来る」と言ったのです。

  そしたら息子は、「親父は、そんなに冷酷な人間か、自分は最後までするつもりでいる。家族の一人もちゃんと見ることができなくて、世の中でどれだけ人に役立つ仕事が出来ると思うのか」と言ったというのです。その結果彼は就職せずに看病を続け、彼が解放されるまでに6年の歳月がかかったのです。社会的に出遅れた息子さんですが、今は立派に家庭を持って独立しています。

  ましてや、神は決して置いてきぼりにされないのです。最後までご自分にしっかり結び付け、刻みつけて下さるのです。それが主なる神の約束です。

  「わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。」神はこの民を、ご自分の誇り、名誉、輝かしい冠にしようとしておられたのです。それが主なる神のご計画でした。

  皆さんも、神は、「私の輝かしい冠」とされるのです。先程お読み頂きましたⅠテサロニケ2章に「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。 実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」とある通りです。

  ここに集う皆さんも神の誉れであり喜びであるだけでなく、皆さんの頭にも目に見えない輝かしい冠が載せられています。見えますか?見えない?ケンブリッジの教会に通っていた時、80人程が集まって大学の関係のレストランでクリスマス・ランチをしました。日本では豪華な雰囲気の高級レストランで5~6千円でしています。ディナーなら1万5千円でしょう。でも向こうは1400円程のクリスマス・ランチでしたね。皆、古くからの本物のキリスト教信仰を持った人たちのクリスマスの祝いですのに……。

  その時、テーブルの上に各自に何か用意してあるんです。何だろうと思って広げたら、赤や緑、黄色などの王冠です。色つきの蝋紙(ろうがみ)の王冠。それを頭にかぶって食事しましたが、一人ひとりがキリストによって「誇るべき冠」とされていると言うような晴々した気持ちでしたね。

  エレミヤ2章2節はこう語ります。「主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。」神のご計画も素晴らしかったが、イスラエルの民の方も花嫁のような純情な愛を持って神に応答したのです。まさに神の誇らしい冠でした。

  ……だが今、エレミヤを通して主は、「彼らは聞き従わなかった」と言われるのです。神の真実で、情熱的な熱い愛に応えず、遂に何年も水に浸かった麻帯のようにボロボロになってしまったのです。それはどんなに大きな悲しみであり、驚きであるかということです。

  さて、今日はここまでにして、来週に次の段落からご一緒に学びましょう。

          (完)

                                             2015年6月28日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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