サメに襲われた高校生


                          ノートルダムの塔上から
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                                               伸び伸びと今を生きよ (下)
                                               ルカ20章1-8節


                              (2)
  するとイエスは、では私もただ一つ質問をするから答えて下さいと言って、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」とお尋ねになったのです。ヨハネの洗礼は、天の権威、神の権威に基づくものだったか、それとも人間から出た、地に基づくだけのものだったかという意味です。

  すると彼らは一瞬、沈黙したのです。思い掛けない質問に虚を突かれたのです。暫く頭を寄せ合って相談していた彼らは、「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネ預言者だと信じ込んでいるのだから。」 そこで彼らは、しどろもどろに「どこからか、分からない」と答えたというのです。

  ヨハネの権威は神からのものだと言えば、ではなぜヨハネを信じなかったのかと逆襲されると考えたのでしょう。しかもヨハネは、自分はメシアの先駆者に過ぎない、自分の後からもっと偉大なお方が来られる、私はその靴の紐を解く値打ちすらないと語ってるのを民衆は皆知っていましたから、ヨハネの権威は神からだと認めたら、イエスを神の権威を持つメシアだと認めざるを得なくなります。そんな敗北は何があっても出来ません。

  しかしヨハネは人からだと言えば、民衆は、ヨハネは神から来た預言者と確信していますから、彼らによって石打ちの刑にされると恐れたのです。それで、口ごもりながら「分からない」と答えた。権威も何もない。ただの自己保身です。

  するとイエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言って、彼らの罠をダメにされた。

  実に聡明な優れた判断です。彼らはどっちを答えても窮地に立たされ、ジレンマに置かれます。グーの根も出なかったでしょう。

  イエスは、賢明で何と頭が良かったのだろうと思う方もおられるでしょう。確かにイエスの頭の冴えには私も驚きます。しかしそれと共に、ここにはイエスの神の子としての権威の表れがあり、そして更に、イエスに神が共におられたということが示されています。

  イエスは次の21章で弟子たちに言われます。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、…わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 」

  イエスはこう言われますが、ご自身がそういう言葉と知恵を父なる神に授けられて、ここで語られたと言えるでしょう。

  最近、地震に怯える人が増えています。地震不安神経症という病名があるのでないかとさえ思います。余りに、来るかどうか分からない巨大地震関係のニュースをテレビや新聞や週刊誌が扱い過ぎではないでしょうか。怖がらせています。実際の地震より、地震の不安で命を縮める人の方が多いのではないでしょうか。

  ところが私は地震については鈍感で、地震の時は咄嗟に必要な手段をお授け下さると思っています。その場、その場で、神は共におられるので必ず助けを与えて下さると思うのです。不思議ですがそう思うのです。地震で亡くなっても、それが私の死ぬベストの時ならそれでいい、本望と思っています。神が私に定めておられた時なら、どこで死のうが私にとってベストの死だと思うのです。

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  暫らく前に、16才のカナダの少年がオークアイランド島でサメに襲われて、片腕を肩からもぎ取られました。大変な重傷でしたが、やっと回復し始め、高校生の彼が病院で先日報道関係者にこう語ったのです。

  「この傷は僕の生涯に少しも影響を与えないでしょう。(中々勇ましい子ですね。)むろん片腕をなくしました。だから2つの選択肢があると思っています。片腕がなくてもこれ迄の自分のように生き、行なっていくことです。もしそうしなければ、私は弱って、私の人生がダウンして、ダメになって滅びてしまうでしょう。」こう言って、続けてこう語っていました。「この2つの選択肢から、唯1つだけを選ぼうと思います。自分に配られたカードを使ってノーマルな生活をするために闘い、試みて行こうと思います。」

  「自分に配られたカード。」そう言っていました。そう、他のカードはないのです。であれば手持ちのカード、残りのカードを感謝してフルに活用するしかないのです。口語訳詩編57編に、「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました」とあります。少年は16才にしてこの詩編の言葉を生きようとしているのでないか、だから私の心を強く打つのでないかと思いました。無くなったことを幾ら悔やんでも戻って来ません。腹を立ててもどうしようもない。自分の手にはこのカードしかないんです。じゃあ、これで生きるしかないじゃありませんか。

  父なる神はイエスと共におられたのです。その時、その時に、神は共におられるのです。だから委ねて生きればいいのです。将来起こるか起こらないか分からないことに怯えて生きるのでなく、縮こまらず、安んじて、喜びを抱いて、今を伸び伸び生きればいいのです。福音はそういう自由を語ります。真理はあなた方を自由にすると言われたのです。イエスのお与えくださるのはこの自由です。

  預言者イザヤの言葉もそれに似ています。「信じなければ、あなたは確かにされない。」信じなければとあるのは、岩のように断固として、堅く信じなければという意味です。岩のように砕けることなく堅く信じることです。そうしなければ、あなたは確かにされない。確かにされないという言葉も、元の言葉では、そうしなければ岩の如く確かにされないという語が使われています。

  神のご支配への岩のごとき断固たる信頼。そのように神を信頼するならば、あなたは岩のように確固として確かにされるというのです。

  元に帰ると、この論争を通して、イエスの神の子としての権威が表わされたのであり、父なる神が、イエスと共におられることが表わされたのです。それで、反論も対抗もできない判断と冴えた言葉を、この錚々たるユダヤの重鎮たちに語り、鋭い英知の1撃で、彼らが仕掛けた罠をもみな壊されたのです。

  今日の個所は、神の真理である福音は、どんなに人間がそれを止めようとも進んでいくということも語っています。それは主なる神が歴史を支配しておられるからです。ですから、イエスは時満ちて十字架に付けられるベストの時が来るまで、ご自分に配られたカードをもって地上でなすべきことを為し尽されるのです。

  私たちも神の御心を信じつつ、進みたいと思います。


       (完)

                                             2015年6月21日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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