主の祈りと今日


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                                                    マタイ6章5-15節


                              (2)
  さて、祈りの根本精神を語られた後、イエスは「こう祈りなさい」と言って、9節から、「主の祈り」を教えられました。これは、私たちに教えられましたから、私たちに身を置いての祈りですが、骨子はイエスご自身も祈っておられた祈りだと言っていいでしょう。

  先ず「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈りなさいと言われます。

  祈りの最初は先ず、神への賛美です。神の栄光を求める祈りです。自分自身のことより、何よりも神の御名が崇められることを祈るのです。私のこといかんに拘わらず、神の国が来るようにと祈る。それが私たちの心を落ち着かせ、すっきりさせるのです。そこが心の晴れる源であり、根本だからです。

  主の祈りは、日本語では分かりませんが、ギリシャ語の「アオリスト」という文法で語られた、終末的な祈りという性格を帯びています。どういうことかと言うと、父よ、今、最後決定的に御名が崇められますように。あなたのみ国が今や最後的に来ますように。御心が天におけると同様にこの地上で最後究極的な形で行われますようにという意味です。

  祈る者が高い天に目を向け、世界を遥かに越えておられる神に、今、最後的究極的にあなたの愛のご支配を来たらせて下さいと祈るのです。イエスは、そのように先ず神に祈りなさいと教えられたのです。

  ヨーロッパに行くと、どの町にも高い教会の尖塔が聳えています。大聖堂となると巨大で、まるでその町と周辺地域の全ての人々の祈りを集めて天を指さしている姿でないかと思うほどで、尖塔はその地の人々の祈りの凝縮に似て素晴らしい姿をしています。思わず仰ぎ見ます。天に達しようというのでなく、神の前に跪いて祈る祈りが天に立ちのぼる姿です。実際、大聖堂に入ると、そこに数千人の人が集まって神に向って祈っているのに出会います。

  ただ、祈りは天に向かいますが、大聖堂の建物自体は巨大な建築物で、地上でどっしり重く蹲(うずくま)り、跪いています。それは地上の問題を神の前に持ち来たって動かず祈る人の姿です。太い柱や梁、ボールトと呼ばれる天井の幾何学模様の美しい構造、壁や窓にはめ込まれたステンドグラス、無数の素晴らしい浮かし彫りのレリーフなど、建築物自体がそれを表現しています。

  ある種の哲学は、神や理想や宇宙の精神だけを取り上げます。思弁哲学とか形而上学と言われるものは、言わば天だけを見つめ、霞を食っているような議論をします。しかし主の祈りは、天を仰いで祈り、最後的にみ国の来たらせて下さいと切に祈ちつつ、次に「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください。…」と実際生活の事柄を祈る所へとイエスは導かれるのです。

  11節以下の「主の祈り」の後半でイエスが教えられたのは、食べ物と赦しの祈りです。地上において、日々の空き腹をどう満たし、どう隣人と共に生きるかの祈り求めです。しかも、「わたしたちに」とあるように、私の糧だけでなく、私たちの肉の糧、家族や隣人、世界の人々の食糧問題さえ意識した祈りです。それは、今日でいえば気候変動の問題や農作物の自由化、TPPの問題とも切っても切れない関係が出て来ますし、日本人や中国人や韓国人、即ち隣人たちとどう一緒に生きるかという国際的な愛や共存の問題を含む祈りです。即ち、私たちの糧の問題は、仲間内だけで喰って行くのでなく、敵とどう仲直りし、対話し、協力して行くかの赦しの問題です。食べ物の問題は、「私の」糧である限りは腹を満たす物質の事柄ですが、「私たちの」糧になる時、隣人愛の事柄になります。主の祈りが「世界を包む祈り」とも言われるのは、イエスが教えられた祈りは、まるでイエスの両腕のように、地球上の全ての問題を大きく包み込む祈りだからです。

  こうして、世界を包む巨大な問題を抱え込みながら神に祈るから、大聖堂のあの巨大な建築物は、地上に蹲(うずくま)り、どっしりと重く跪(ひざまず)いているのです。

  今お話ししていることから分かりますように、主の祈りで教えられるのは、神を愛することと隣人を愛することの祈りです。隣人を愛することなしには神を愛することはないし、神を愛することなしには、隣人を真に愛することはできないからです。そうなれば真っ先に欲の問題が出て来ます。

  糧の問題と赦しの問題は、常にどこにおいても起こります。私たちは大抵、人と親しくなることを望みますが、親しさが増すとまたトラブルも生まれます。すると、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という問題が、緊急のこととして現われます。自分に負い目がある人を私が「先ず赦す」のか、それとも「向こうが謝ったら」赦すのか、また敵を赦すことを「条件に」して、神の赦しを求めよと言われているのかなど。実に悩ましい問題が緊急の課題として現われます。また、 赦すと言っても、「どこまで赦すのか」ということも起こります。

  いずれにせよ、天を仰ぎ、神を力強く指さす者たちは、地上の肉や糧の問題、赦しの問題を真剣に祈り求めるのです。

  別の視点から言いますと、普通の日本人なら、神社に行って食物のことを祈ったら、その後は、家内安全や、健康、商売繁盛などを祈るでしょう。だがイエスは、日毎の糧の祈りに続き、私たちを赦しの問題へと向かわせられるのです。即ち最も難しい現実の問題を避けるのでなく、私たちが誰しも抱える一番難しい赦しのことへと向かわせられるのです。このことは最後にもう一度申します。

  それから、「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈れと言われました。美味しい日毎の糧を沢山食べて、それから心がわくわくするエキサイティングな誘惑がある楽しみへと向かうのではありません。人生を楽しみ、その体験を人々に少し自慢し、生きていてよかったと思う欲望の生活でなく、「悪い者から救って下さい」と祈りなさいというのです。

  今日は触れませんが、現代ほど悪い者たちや、悪い趣味が世に蔓延している時代はありません。それは至る所で溢れています。首相や政治家が率先して事実を捻じ曲げた解釈が絶対正しいと言い張っている時代です。これが子どもの教育に及ぼす影響は甚大なものがあります。文部科学大臣こそが、この非教育的な環境を糺すべきです。自己主張のためには事実を捻じ曲げていいという。世界の人の笑いものになる教育です。「悪い者から救って下さい。」そこでは必ず、欲望を持った誰かがぼろ儲けしようと裏で欲望の手を広げている筈です。

       (つづく)

                                             2015年6月14日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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