密かに密室でする祈り


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                                                    命の水を汲もう (上)
                                                    マタイ6章5-15節


                              (序)
  今日は礼拝から午後4時まで、「祈りを考える」という題で夏季集会を持って、この聖書個所を中心に考え合いますので、少し長くお話しさせて頂きます。

  さて今日の聖書に入る前に、6章1節に、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」というイエスの言葉があります。1節だけでなく、5節、16節にもあります。「見てもらおうとして」。そういう態度は神やキリストにある者のあり方ではないというのです。

  英語で宗教はreligionです。これは元々ラテン語のレリギオから来た言葉で、宗教とは神との関係であって、日本語が示すような教祖や宗祖の教えというのではありません。特にキリスト教は、神との私たちの関係、真理との関係であって、人にどう見られ、どう思われるかが優先するものではないのです。

  また2節で、施しをする時に、「自分の前でラッパを吹き鳴らし」人を呼び集めるとありますが、善行を吹聴するのはキリスト教信仰とは程遠いものです。善行ですから高潔な行為ですが、どんなに高潔でも高潔をひけらかせば、天の神から報いを頂けないと言われるのです。

  信仰や善行は人の注目を集めるビッグ・ショーではない。それは神の前で生きる真実な生き方とは無関係である。偽善だというのです。いかにも手厳しいですが、手厳しいのは真実な人生とは何かを示そうとしておられるからです。

  また3節で、施しをする時、「右手のすることを左手に知らせてはならない。」そんなアクロバット的なことは誰もできませんが比喩的表現です。あなたの善行が隠れているためであり、神に献げるためで、それ程そっと密かにすべきだというのです。ある英訳聖書は、「あなたの一番親しい友もそれを知らないようにすべきだ」と訳しています。

  見てもらおうとして行なわない。ラッパを吹きならさない。右手のすることを左手に知らせない。ここで言われているのは、信仰的な禁欲・アスケーゼです。欲望の全開でなく、人生を真面目に生きるために、専ら神に心を向けて真摯に生きるあり方です。

                              (1)
  これが6章の初めに語られていることですが、このアスケーゼ・信仰的禁欲は、5節以下の祈りにも貫かれています。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 」

  「人に見てもらおう。」これはどこでもこっそり顔を出して来る、蛇の醜い鎌首のようなものです。この偽善者たちは、律法学者やファリサイ人を指します。彼らは立派な信仰者で、礼拝は欠かさない、聖書を熱心に勉強する、善行も人一倍熱心だし、慈善にも協力的です。しかし、人に見てもらいたいという心が、袖の下からこっそり首をもたげている。それだけでなく「祈りたがる。」人に見せたがる。そうなれば神との関係でなく、人との関係になり「既に報いを受けている」と言われるのです。折角の素晴らしい行為も価値が半減し、祈りがおかしいものに変質してしまうと言われるのです。もはや祈りではありません。

  それに対して、私たちは天の父なる神を仰ぐ者、神の国を待ち望む者である。それを起点とし、そこから出発しなさいと言われるのです。

  イエスは6節で、「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われました。

  奥まった部屋で祈るのは、神と出会うためです。神に命の源があるからです。そこに泉がふつふつと湧いているからです。誰でも渇いている者は、ここに来て飲みなさいと言われている命の泉です。心の最も深い所で力を授けられるのは、この方との交わりであるからです。だが多くの人はこの交わりを失っています。

  使徒パウロは迫害や投獄にも拘らず、喜びを抱いて主を証しし、富にいる道も、貧に処する秘訣も心得て進んで行きました。それは、この命の水を汲んでいたからです。

  「奥まった自分の部屋」というのは、字義通り取る必要はありません。電車の中も山の中も、台所も、そこが密室になります。また人の前で祈るなというのではありません。公の祈りはあります。ただ公の祈りは、密室の真摯な祈りに根差し、そこから生まれ出る純粋なものでありたいと思います。

  「戸を閉じて祈れ」と言われたのは、戸を閉じると不思議ですが心が開きます。神に向って心が全開するからです。

  繰り返しますが、祈りの原点はただ一人の父なる神との極めて個人的な交わりであり、密かに密室で行うものです。人にも、自分自身にさえも見せる行為ではありません。自分の祈りの言葉に酔って有頂天になる人がいれば、それは祈りから一番遠い所にいる人です。ぎこちなくてよいのです。祈りの原点は、隠れた所で、隠れたことを見ておられる父なる神の前にただ一人出るのです。すると報いて下さる。

  むろん求めるものがそのまま与えられる場合も、違った形で与えられる場合もあります。神は私たちの召使ではありませんから、時には、現在の私には意味が分からないものを授けられますが、後になって、それが最善のものだと分かったりします。

  祈りには様々な祈りがあります。置かれた状況で違いがあって当然で、また祈る中で、何かを思い出して変化するのも当たり前です。

  詩編にその様々な祈りがあります。そこには感謝の祈り、神を賛美する祈り、喜びの祈り、悶え苦しみ神を叫び求める祈り、涙の祈り、神への訴え、神に喰ってかかる祈り、神への疑問、聞かれない祈り、罪を犯しそれを告白できずに苦しむ祈り、病床の祈り、寝床で起き跪いて祈る祈り、都もうでのような大勢で歩きながらの祈りから、たった独りきりの孤独な祈りもあります。言葉なく神の前に沈黙する祈り、平和の祈り、悟りや知恵の祈り、いろは歌のような祈りなど、この他にも色々な祈りがあります。

  ただ中心は、神との交わりです。祈りが聞かれようが聞かれまいが、神との交わりそれ自体が私たちを力づけるのです。

  イエスは7節で、「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」と言われました。くどくどと述べるとは、唇を震わせること、多弁を指します。

  百万遍というお寺が京都にあります。知恩寺ともいう浄土宗の大本山ですが、7日で百万回念仏を唱えたら聞かれたと言うので有名になった寺です。しかし馬の耳に念仏とも言います。百ぺん、千べん、百万遍、念仏のようにくどくど言葉を唱えても聞かれるわけではない。異邦人に見習うなと言われたのです。

  エリヤ1人と戦ったバアルの450人の預言者たちは、バアルの神を呼び寄せるために死に物狂いになり、遂に剣や槍で身体を傷つけ、血みどろになってバアルの神を呼びますが、ウンともスンとも声は聞こえず、バアルは来ません。彼らは、言葉数を多くし、祈りが長く、血みどろになって難行、苦行をして迫れば神は聞いてくれると思っていたのです。だがそれは戯言(たわごと)に過ぎないのです。その考えの行き着く先は、神に願いを聞いてもらうために、人身を献げる人身御供(ひとみごくう)の宗教です。バアル宗教は結局ご利益宗教で、ご利益宗教は大抵何らかの人身御供のような犠牲を強いて行きます。しかし、キリスト教が特に忌み嫌うのは、このような人身御供を要求する宗教、思想また組織です。

  ただ、むろん、神に迫るような祈りというのはあります。イエスは血のような汗を流してゲッセマネで祈られました。だがそれもやはり神との交わりによって力を与えられる為です。神を脅したり、脅迫するのではありません。

  むしろ神との交わりによって、赦しと平和を与えられ、汚れが清められ、喜びと幸いが与えられ、神との交わり自体が私たちを力づけるのです。

  8節の「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とは、信頼と平和を持って神に委ねなさいということです。願う前からご存知なら、祈らなくてもよいと言うのでなく、だから感謝と信頼を持って祈りなさいということです。


       (つづく)

                                             2015年6月14日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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