恐れず、尊敬を持って


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                                               恐れず、尊敬して生きる (下)
                                               Ⅰテモテ6章1-2節


                              (3)
  さて2節は、主人が異教徒でなく、同じ信仰を持つ場合です。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです」とありました。

  奴隷の、主人との関係、また主人の、奴隷との関係は新約聖書のあちこちに出ています。既に学んだコリント前書7章やコロサイ書では両者への勧めが書かれていますが、今日の個所は奴隷が主人にどう接するかだけが書かれています。

  フィレモンへの手紙は、パウロがオネシモの主人フィレモンに宛てた手紙です。オネシモはフィレモンの奴隷でしたが反抗的だったようで、遂に彼はそこから逃げて逃亡奴隷になったのです。あちこち逃亡中に悪事を働き、遂に牢屋にぶち込まれました。その牢屋で彼はやはり獄中にいたパウロに出会い、信仰に目覚め、やがて釈放されて主人フィレモンの下に帰ることになります。パウロはフィレモンに宛てたこの手紙に、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」迎えて欲しい。「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」と書いて、オネシモに持たせました。

  奴隷に語る場合と主人に語る場合で書き方が当然違います。両者が、主によって兄弟になったものとして和解して主の栄光を現わして欲しいからです。

  私たちはこのように今この教会で礼拝していますが、彼らも一緒に礼拝したり教会の大掃除を仲良くしたりしていたわけでしょうが、主人が教会では自分の信仰の仲間だ、兄弟姉妹だと言って、余りに慣れてきて、増長して主人を軽んじてしまってはならないと諭します。軽んじるなと語るだけでなく、「いっそう熱心に仕えるべきです」と勧めるのです。即ち、愛と信頼、尊敬を持ってキリスト者である主人に接すべきですと勧告しています。

  あの時代に、主人が進んでキリスト者になった場合、奴隷たちは心から喜び、主人を誇りにして一層熱心に仕えたに違いありません。だが誇りにして主人を慕って近づくうちに、人間ですからアラも見えて来ます。するとそれを他所で話したり茶化したり、余りに馴れて来ると、軽んじる場面も出て来たでしょう。奴隷の中に立派な人物がいると、それと比較して見せる場合もあったでしょう。人間の弱さです。

  理想的なキリスト者の主人だけでなく、色々欠点を持つ主人もいた筈です。奴隷の方が信仰的に深かったり、聡明であったり、学問を積んでいたり、主人の方は信仰に入ったものの信仰の核心に至らず、周辺をウロウロしている場合もあったでしょう。人間的に未熟な場合もあります。余りにも単純であるとか、物事が起こると奴隷たちよりオロオロするとか、今日では、普段夫は主人面しているのに、何事かが起こると逃げて、奥さんの方が前面に出てテキパキと責任的に物事を処理していくことがあるかも知れませんね。いずれにせよ、主人は何かの拍子で鬱的になるとか、この世から信頼を受けてそちらで活躍するうちに、世事にかまけて信仰がおろそかになる主人もあったでしょう。

  だが、たとえそうであっても、「軽んぜず、一層熱心に仕えるべきです」と勧めるのです。

  主人と奴隷が信仰に立って信頼し合って行けば、共に神から用いられて行くからです。信仰は競争ではありません。競争のように考えるべきではない。互いの支え合いや祈り合いが大事です。

  「信仰上の兄弟」とあるのは、共にキリストの恵みに与り、共に水の中に沈められ、キリストの復活に与るために水から引き上げられ、キリストにおいて兄弟姉妹とされたことの重視です。それが両者に共通な重要な客観的事実であり、この事実の上で信頼し合うようにというのです。

  ここにあるのは、諦めや忍従の宗教というような暗いイメージではありません。どんな境遇にあっても、神の栄光を現わすことが出来ること。闇は光に勝つことはないように、逆境においてもそれに負けはしないという積極的な姿勢が窺われます。

  「その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです」とは、主人が信仰と愛にある兄弟姉妹の一人であることを再確認することを促す言葉です。その事を、共に喜びなさい。共に喜ぶという奉仕です。自分が賞を得ようとするような、自分は奴隷だが人間としても信仰者としても上だとするような態度でなく、共に主の前に砕かれた者として立つことの勧めです。その事によって、仕えるという僕の行ないで主の名が崇められる。何と喜ばしいことでしょうというのです。

  恐れるのでなくまた反対に軽んじるのでなく、尊敬して生きることによって、両者はますます神から用いられ、神の栄光を現わすものとなるのです。不要な恐れを捨てて尊敬し、信頼して行きなさい。その事によってあなたはその家庭で掛け替えのない者として用いられると言いたいのでしょう。

  著者のパウロは、「私は主の奴隷です」と大胆に語りました。この言葉は、当時の奴隷たちに強いインパクトを持って迫ったと言われています。「私は主の奴隷です。」パウロは自由人でしたが、低くなって人々に仕えたのです。

  この言葉に励まされ、奴隷たち自身が、自分もイエスの奴隷になろう。イエスにあって奴隷であってよいのだ。それは喜ばしい生き方だという新しい発見をして、先ほど話したアンクル・トムのように恐れず尊敬をもって生きたのではないでしょうか。


       (完)

                                             2015年6月7日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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