気高い魂を持つ人でした


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                                               恐れず、尊敬して生きる (上)
                                               Ⅰテモテ6章1-2節


                              (1)
  2か月ぶりに第Ⅰテモテに戻って来ました。これまで3章から、監督の資格や婦人の奉仕者について、また身寄りがないやもめに対して、青年テモテに対して、長老に対してなど、具体的な勧めや指示がなされて来ましたが、その最後に、主人に仕える奴隷に対しての勧めが今日の所で語られています。当時、奴隷のキリスト者が増えたからでしょう。1世紀末頃から、社会的に配慮が要る状況の人たちが多数信仰に入って来ていたに違いありません。

  「軛(くびき)の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません」とあります。奴隷の身分というのは当時、大変苦しく、首に重い逃れられぬ軛を括りつけられている状態と考えられていたのでしょう。

  これは、主人の立場や支配者側に立ってものを言っているのでなく、彼らの辛さを知り、それを思いやる者の言葉だと思います。2千年前です。人権も何もあったものではありません。奴隷は主人の所有物で、生殺与奪の権を握られています。悪質な主人にかかればいつ鞭が飛んで来るか知れません。ですからこれは一種の処世訓でもあるでしょう。処世訓だけではありませんがその面があります。

  日本の奴隷制は殆ど言われませんが、奴隷制卑弥呼の時代からありました。江戸時代の農奴の生活は奴隷以下であることもあったようです。それに女性の地位は、明治以降も実に低かったのです。例えば明治憲法では姦淫罪がありました。だがそれは夫のある女性にだけ適用され、男性には適用されなかったのです。何故かと言うと妻は夫の所有物、奴隷的存在でしかなかったからです。そんな意味でも今の民主憲法平和憲法は大切です。

  聖書時代の奴隷は実際に軛(くびき)に繋がれていた訳でないにしても、教会に行くにも自由が制限されていたでしょうし、奴隷であるため、自由人以上に賢明に生きねばならなかったでしょう。主人にとって、奴隷が反抗的であるのは当然ですが、オドオドしていることも癇に障ることがあるでしょうし、図々しくあるのも許せない。明るくしていても面当てのように取る場合があったでしょう。

  そういう中、「自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません」という勧めは、適切だと思います。「十分尊敬すべきものと考える」とは、十分尊敬すべきだというのと違います。相手にその値打ちがあるかどうかに拘わらず、尊敬すべきものとして受け留める。尊敬すべきものとして、丸ごと飲み込んでいくということでしょう。元のギリシャ語は、それに相応しいだけの尊敬を払いなさいという意味です。数量では言い表せない尊敬と訳している英訳もあります。

  主人の欠点を見たり、ましてや暴き立てるのでなく、主人を労り、敬い、愛する姿勢を持って行く。和解と平和を創り出す姿勢を奴隷の方に求めているのです。

  当時の奴隷は必ずしも教育がなかったわけではありません。むしろ主人より教育があった場合もあります。というのは、ローマ軍と戦って捕虜になり、奴隷とされた敗戦国の貴族や軍人も多くいたからです。

  いずれにせよ、「それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです」とありますが、別の角度から言えば、神とキリストを根拠に、神とキリストを仲介して対人関係を持つことです。奴隷は辛い地位にあるが、主人と良い関係を作り、平和と和解を作って生きていくことへの勧めです。

  今日こういうことは大変辛いでしょう。渡しなど、人から要求されたらたまったものではありません。だが、自分に課していくという事ならある程度は可能かも知れません。

  それにしても難しいことです。それは難しい立場に置かれているのが奴隷だからです。主人を十分尊敬すべき者として、心を込めて敬う。そう腹を決めるということです。裁きを一切神に委ねるということでもあるでしょう。

  「アンクル・トムズ・ケビン」(トムじいやの小屋)というストー夫人の小説をお読みになった方もいらっしゃるでしょうが、涙なしには読めません。感動的な物語です。悪意にも善意を持って返していくトムじいやは奴隷ですが、本当の意味で独立的な気高い人間、雄々しい魂を持つ、尊敬すべき立派な人物です。彼は信仰の良心に基づいて、悪い主人にも最善の善意を心から示します。不正や悪をそのまま飲み込むのではありませんが、ぎりぎりの所で生きて、やがて奴隷解放へと事態が進んでいく様子を描いています。それは単なる負けじ魂でなく、雄々しい信仰の魂です。

  この小説は、「奴隷所有者の鞭の音と、苦しめられている黒人の叫びを、アメリカ国中の全ての家に鳴り響かせ、もはや人間の心がそれに耐えることが出来なくさせた」と言われています。まだ日本では農奴も自然であった徳川末期ですが、これは奴隷解放運動への弾みになって行きます。これは「信仰の作品」です。作者のストー夫人はある手紙でこう書いています。「奴隷にも、父なる神の右に座すキリストが身をかがめておっしゃる。『恐れるな、人に侮られる者よ、私はあなたの兄弟である。恐れるな、私はあなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ。』」また、ヨーロッパ版の序文に、「人を奴隷として所有する人間は、その人自身、真に自由になりえない」、「人間の権利を踏みにじった最も卑しい者は、非人間的であるばかりでなく、冒涜的でもある。この冒涜の最悪の形が奴隷制度である」と、ストー牧師の奥さんであるこの夫人は書いたのです。

       (つづく)

                                             2015年6月7日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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