真理を抹殺する


                            ノートルダム寺院          右端クリックで拡大
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                                               褌(ふんどし)がゆるんでいる (下)
                                               ルカ19章45-48節


                              (2)
  イエスは、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われました。元のイザヤ書は「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきである」と語り、マルコはそれをほぼ踏襲して、全ての国の人の祈りの家と呼んで、全世界の人たちが祈る場所と考えています。いずれにせよ、神の家は経営や運営や金儲けでなく、祈りの家、信仰の最も大切な神との出会いが中心になる場であると語られたのです。

  祈りの家。教会は神殿ではありませんが、まさに祈りの家です。それは本来、祈りの場、神との交わりの場です。その一番重要なものがおろそかにされるなら、いくら献金が献げられようと、厳粛な礼拝がなされようと、神との出会いがないなら空しいと思います。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」この「祈り」という言葉は、ただ神への祈りに限って使われる言葉です。他には使わない。

  教会において、真理問題はどうでもいいということになれば、それはもう教会でなくなるでしょう。また、神との出会いの場と申しましたが、牧師や教師自身が神と出会っていないで、単に神について語っているなら、それも実に空しい。いや、それも一種の商売の場への転落です。

  先週の平日礼拝で申しましたが、「神について」知ることと、「神に聞く」ことは全く別です。どんなに神について聞いても信仰にならない。キリスト教の学問や教説の学びになっても、神との出会いが起こるとは限らない。お母さんがいないので泣き出した赤ちゃんに、あなたのあ母さんはこんな素晴らしい人だとか、愛の人だとか、幾らお母さんについて話しても、もうすぐ帰って来ますよと宥めても泣きやみません。でも、お母さんの声を聞けば、お母さんに抱っこされれば泣きやむでしょう。信仰も神に聞くことが肝心です。

  言葉を変えて言えば、教会はそこで神に出会い、神によって砕かれ、罪を赦され、慰められ、安心し、希望を授けられて、この世へと押し出されて行く所です。

  私が青年時代に通っていた教会は実によく議論がなされました。色々癖のある論客が何人もいて議論の楽しい場でもありました。男性の多い教会でした。そこで育てられたことを私は感謝しています。

  だがある時、その教会には人間はいるが、神がいないと思ったのです。人との出会いがあり、人と自由に考えを闘わせる場として素晴らしい所でした。だが、人間の集まりだけだ。人間を超えるお方が不在であると生意気に思ったのです。

  むろんそういうことだけではないのですが、余りに人間が神の前面に出過ぎていると思ったのです。

  これまで自分の信仰を余り振り返りませんでしたが、半世紀の信仰生活を振り返ると、私はその時に抱いた直観を大事にして来たような気が最近しています。祈りの家。神と出会う場所。それは人間を超え、自分とあなたを超えるお方の前に、共に額ずく場所だと思います。牧師は永遠に副牧師であって、大牧者はキリストだけです。このお方の前に牧師も信徒も客員も求道者も皆、額ずく。そしてこのお方からみ言葉を聞く。そういう時に、自由の空気が流れ込んで来る。そして誰もが罪を赦され、愛され、慰められ、誰もが励まされ、み言葉を聞いて誰もが希望を与えられてこの世に遣わされる。

  教会の礼拝は私的なプライベートな営みではありません。これは公の礼拝です。「公同の教会を信ず」と言いますが、プロテスタント教会も神の前にカトリックであり、普遍的であり、公け性を持っています。

  礼拝厳守ということもそこから出て来ます。私たちの教会では余り礼拝厳守を言いませんが、あちこちの教会で礼拝厳守を掲げている所があります。それはそれでいいのですが、でも、そういう教会で、牧師が教会に隣接した牧師館に住まず、遠くから通っている場合が増えて来ました。牧師が電車に乗って遠くから通いながら礼拝厳守を言っている。でも、電車が遅れたり、最近は色々あるんじゃあないですか。電車が止まって牧師が来れない。すると厳守を言いながら礼拝が守れない。教会に隣接した、少なくても歩いてすぐ来れるれる牧師館に住んでこそ、礼拝厳守の言葉も意味を持ちます。こういう言行不一致のチグハグが最近起こっています。

  今日の個所に、「 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った…」とありました。

  毎日、神殿の境内で教えるという事は大変な勇気です。靖国神社の境内で伝道するに等しく、尋常な精神ではとてもできません。それが出来たのは、民衆が夢中になってイエスの話に聞き入っていたからで、祭司長などはイエスを殺そうと謀ったのですが手出しできなかったのです。

  商売になったり、人間が神の前に出て活躍する教会、神のいない教会になれば、祭司長、律法学者、長老など民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀り、都合の悪い真理を投げ捨てるようなことが起こります。分かりにくい暗喩で申していますが、真理がどうでもよくなれば、真理を教えながら真理を抹殺してしまうのです。

  だが、神に砕かれ、悔い改めを与えられ、罪赦され、新しくされて行く。神との出会いが起こる。それが祈りの家としての教会と言っていいでしょう。そういうキリストの教会を目指して行きましょう。

          (完)

                                             2015年5月31日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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