手渡された大判金一枚


                        何度接してもため息が出ます        (右端クリックで拡大)
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                                                 手渡された大判金一枚 (下)
                                                 ルカ19章11-27節
          

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  ですから、すぐにも神の国が来るというような浮ついたものでなく、勤勉と忍耐と工夫を必要とする商売に譬えられたのでしょう。

  10人の僕は完全数です。ですから10人は、キリストの恵みに与った私たちすべてを指します。私たちは皆、キリストという、或いはキリストの恵みという1ムナを託されたのです。神の恵みは公平であり、誰にも平等です。1ムナを託されたという事は、信頼されている印です。愛されているのです。キリストを味わえば味わうほど、キリストの恵みは豊かになり、豊かにされます。

  ムナはギリシャの貨幣単位ですが、ほぼ労働者100日分の賃金に当たります。今の正職員のお金に直すと100~300万円でしょうか。江戸時代の大判金は種類によって違いますが、100万円~300万円ですから、1ムナ渡されたというのは、ほぼ大判金1枚を渡されたということです。要するに、商売のある程度の軍資金を託されたということでしょう。

  ここには商売で失敗した僕は出ていませんが、商売はうまくいかない場合もあります。失敗するために商売する人はいませんが、商売するとは、失敗を恐れず、また品物への苦情や注文があっても、苦情を取り入れて改善し、相手にこちらの意図が伝わるように説明をしながら、商売の中心を見失わずに大胆に取引することでしょう。

  僕たちは主人の信頼に応えたいと一生懸命になったのです。それで主人が王位を受けて戻って来た時、それぞれを呼んで結果を聞いたのです。するとある者は10ムナを儲け、ある者は5ムナを儲け、ある者は布に包んで隠しておいた。これらは先ほど申し上げたような、キリスト亡き後の地上の信仰者に託された使命を譬えています。だが信仰者の中には託されたものを用いない者、しまって置く人もあるということでしょう。

  キリスト教神学者でも祈らない人がいます。祈らないというより祈れない。祈りに困難を覚えているのです。どんなに知識が豊富で、鋭く切り込んだ深い研究をしても、神との交わりである祈りが困難なら、神の無限の愛を十分に味わうことはできません。神のみ声に耳傾け、神の創造の麗しさに与り、今を感謝して生きることはできないでしょう。キリストの愛に錨をしっかり降ろして生きる時に喜びが生まれます。感謝も湧きます。

  10ムナを稼いだとか、5ムナを儲けたというのは、キリストという恵みの源泉に堅く根ざして生きた結果です。布に包んでしまっていたというのは、キリストの恵みに生かされようとしなかったということです。それでは折角の恵みが不意に終わります。

  ここで儲けた金額に応じて10の町、5つの町を治めさせようとあるのは、この世の功績主義を言っているのではありません。功労者に褒美を与えるようなことに取るとおかしなものです。

  全部ではありませんが、今、韓国の「ある種の教会」で起こっているのが教会成長至上主義だと言われます。大型教会になることが伝道者の高い評価になるのです。そういう中で、教会の売買が行なわれています。教会を売るのです。教会が売買の対象になっているという恐ろしい世界です。大山のような下町と田園調布のような所に集う人は違うというわけで、売買の評価額が信徒の数と教会の立地で決まるというのです。高級住宅が多い地域の信徒20人は、下町の貧しい地域の信徒20人より価格が遥かに高いのだそうです。教会成長至上主義は牧師も信徒も腐敗させていくでしょう。

  「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」これも教会成長至上主義の考えで言っておられる訳ではありません。

  そうではなく先程申しましたように、キリストの恵みに錨を降ろすということです。すると泉が湧いているのです。誰でもです。その泉に与れば与るほど、満たされて来るのです。だがそこに錨を降ろさなければ、折角のキリストの恵みも台無しになるのです。

  今、イギリスBBC放送の北アイルランド国会を報道して来た著名なテレビ・リポーターが、25年間勤めた仕事をやめ、シスターになることを決心し話題を呼んでいます。そのカトリックの修道会は、何と聖餐式すなわちミサのパンを造るのが使命だそうです。テレビ世界からパン作りの修道女になる。非常に単純な世界です。だが彼女は、「安易な選択でなく、愛と大きな喜びをもってこの決断をしました」と語っていました。他にも、最近、高学歴の人の中に信仰の道に進む人たちが生まれているそうです。

  神の恵み、キリストの深い恵みの中に人生と生活の錨を降ろす。そうでなければ命が枯渇してしまうことを覚える人たちが生まれているのです。今、仕事としてはやりがいもあるのですが、そういう命の枯渇のようなものが先進国諸国で起こりつつあります。

  ここにも、神の恵みに錨を降ろせば不思議な泉が湧いていて、これまでは自分のことしか考えなかったが、自分だけでなく、他の人たちにも心が向いて、自ずと生き方が広がり、豊かにされるということが示唆されていると思いました。

  キリストが与えられる1ムナ、それを用いれば、それは不思議な力を持っているということです。

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  最後に、恐ろしい言葉ですが、「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」と語っていることは、どう理解すればいいのでしょう。

  これも誤解すれば、王になるのを望まなかった敵どもとは比喩的に考えると、イエスをメシア、キリストとして迎えず、世界の王と認めない人、キリストを信じない人たちのことでしょう。その人たちはキリストの目の前で、裁かれ、打ち殺してしまえ。キリストを信じない人は打ち殺していいのだということにならないとも限りません。恐らくそう理解する牧師たちもいるだろうと思います。本当にそれでいいのか。

  しかし徴税人の頭ザアカイを愛し、罪人や遊女や乞食たちも愛して招かれたキリストが、そして最後に自分を十字架に磔にする人たちのために、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成しの祈りをされたキリストが、どうしてご自分の目の前で、彼らを打ち殺せとおっしゃるでしょうか。それは今でなく終末の時だと言えど、本当にそうなのでしょうか。

  むしろここで語られているのは、この現実社会で起こっていることです。今も昔もこの実社会で起こり得ることは、即ちこの世の王、或いは往々にしてトップの座に就く者たちは独裁者になり、しばしば、自分の気に入らない者や敵対者の首を切ったり、解雇したり、情け容赦なく殺すものだと言っておられるのではないでしょうか。即ち最初に申し上げた、この世の王アルケラオが実際に行った残虐行為を譬えの最後で記録されたのだと思います。

  しかし、キリストが再び来て、最後に私たちにされるのは、この罪深い私たちへの赦し、神への執り成し、マタイ18章にあるような、「償い方なかりしかば憐れに思い、ことごとくその負い目を赦したり」と語って、私たちの身代わりとなって、もう一度十字架にお着き下さることではないでしょうか。終末に再び十字架に就いて下さる。これは比喩的ですが、それ程の愛をお示しくださるのだと思います。甘えちゃあいけませんが、私たちに対してただ愛だけを示されるのでないかと思います。

  ザアカイのこと、エリコ近くで盲人を癒されたこと、子どもを祝福されたことなど、これまで学んで来たことからすれば、この恐ろしい言葉は最後の審判におけるイエスの言葉であるとは思われないのです。

            (完)

                                             2015年4月26日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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