強気の傲慢と弱気の傲慢


                         イースターのお二人の洗礼式
                                ・



                                                  救いがこの家に来た (上)
                                                  ルカ19章1-10節



                               (1)
  久しぶりに今日はルカに戻って来ました。前の個所はエリコの町の入り口での出来事でしたが、今日はエリコの町中での出来事です。「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」とありました。

  ザアカイはエリコの徴税人の総元締めでした。古代から続くこの町は、メソポタミヤからパレスチナ、エジプトへと結ぶ街道の主要な中継点で、ローマの収税所があり、運搬物への課税、道路や橋を行く時の通行税などを取り立てたのです。今でも車を持っている人は車の重量税とか、高速料金は通行税の一種です。支配者のローマ帝国は直接税金を取り立てず、徴税は大抵ユダヤ人の徴税人にやらせました。請負仕事ですから、今なら競争入札でやらせるところです。こうして徴税人の頭は、何人もの下っ端を雇って税金を取り立てたのです。

  それはローマの手先になることを意味しましたから、同じユダヤ人からは嫌悪され、敵視されました。身を売って日銭を稼ぐ遊女たちと同列にされ、罪人と見なされたのです。

  イエスの一行がエリコに来た時、町の入り口で物乞いしていた盲人のことを暫らく前に学びました。彼は人々から叱られ、まるで汚い犬ころのように追い払われようとしたのですが、今日のザアカイは追い払われはしなかったが、罪人として白い目で見られ、のけ者にされたのです。

  しかしザアカイは、イエスを見ようとして、あちこちに行っては、首を伸ばし、背伸びして見える場所を捜したのです。しかし背が極端に低く、群衆に遮られて見えなかったし、誰も代わってくれなかった。むしろ彼の姿に顔をそむけ、決して入れてやるものかと肘(ひじ)を張って背を向けたのです。

  ザアカイはそんな嫌がらせを受けても気に留める男ではありません。気にしていれば生きていけないと割り切っています。嫌がらせをされても、余りこだわらず、頭を働かせて別の工夫をする。どんな仕打ちを受けても凹まない。凹んではおれないと思っています。金持ちになったのは、そういう頭の切り替えの早さでしょう。

  「イエスがどんな人か見ようとした」とありますが、元の言葉は、切に見たいと欲していたとなっています。

  どうして切実であったかと言うと、ルカ福音書5章を見ると、イエスは徴税人レビを弟子にしておられたからです。ザアカイは、自分と同じ境遇であり、世間から酷く嫌われている徴税人を、イエスが弟子にしたと聞いて驚嘆していたのでしょう。イエスはどんな奴かと、内心、強く惹きつけられ、強い関心を持っていたのでしょう。その上、遊女、ハンセン病の病人さえ抱きかかえて温かく迎えているという噂にも驚き、イエスをぜひこの目で確かめたいと思っていたのです。

  それでイエスをどうしても一目見たいと切に欲した。そこで一計を案じ、先回りしてイチジク桑の木に登ったのです。徴税人の総元締めですから50才代にはなっているでしょう。少なくても40代の半ばでしょう。しかし少年のように身軽に木によじ登ったのです。手に入れようと思えば、なりふり構わずそれを追う彼の姿がここによく出ています。恥も外聞も気にしない自由人です。だから徴税人の頭にもなり得たのです。

                              (2)
  さて、暫らくして、イエスはその木の下に来られました。上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。彼は驚いたでしょう。自分の名前を知っておられる事に驚き、ぜひ今日泊まりたいと言われるのを聞いて耳を疑ったでしょう。

  「泊まりたい」という言葉は、直訳すれば、「ぜひ泊らねばならない」ということです。ザアカイに救いが訪れるために、「ぜひ泊らねばならない」というイエスの気持ちが読み取れます。イエスは、ザアカイの心を既に見抜いておられたのでしょう。

  少し外れますが、傲慢には強気の傲慢があります。普通、傲慢と言えば、奴は傲慢な奴だなどと言うように強気の傲慢を指します。傲慢は高慢な態度にもなります。しかし強気の傲慢だけでなく、キルケゴールが言うように弱気の傲慢もあります。福音書に出て来るゲラサの狂人がそうです。彼は弱気のために人前に出て行けません。びくびくして社会生活もうまくできない。それで、自分を石で叩いたり、傷つけたり、これでもかこれでもかと自分を痛めつけて絶望に追いやり、墓場や山で叫びまわっている。自分の弱気を傲慢に押し通して、人のアドバイスを一切聞かない。聞く耳を持たない。だから一層状況が悪くなります。

  弱気の傲慢も、強気の傲慢も本来は何か高いものを目指しているのでしょう。だが、現実とのギャップが大きく、トンチンカンな的外れな在り方になっている。罪は的外れです。

  ザアカイは強気の傲慢で押し通し、徴税人の頭になったのです。ところが強気の傲慢も、一皮むけば弱さの仕出かすところです。

  彼の中に強さと弱さが混在していたのです。強さが弱さになり、弱さが強さになる。そこに彼の弱さの本質が隠れているでしょう。その弱さを隠すために、彼はローマの後ろ盾を得て、無謀な暴力的取り立てという一般人が顔を顰(しか)める仕事で能力を伸ばしたのです。その総元締めになるために持てる力をフルに発揮し、やがてこの町の徴税人の親方として金持ちにもなり、ローマの権力を笠に着て力を奮った。弱さを持つが故に、護身のために一層ローマの権力を笠に着て力を奮った。それは社会への何かの仕返しでもあったでしょう。

  彼の心の中には解決し難い魂の問題が渦巻いていた筈です。それがエネルギーとなり、反社会的な所で力を噴出させていたのです。

  それでイチジク桑に登って、人々もイエスも見降ろしたのです。上から見降ろしていると、彼の心に名状し難い何か愉快さが起こったと思います。弱さゆえのねじれた高慢な快感です。先回りして、皆が尊敬するイエスを見降ろす快感です。一種の愉快犯の心理です。


    (つづく)

                                             2015年4月12日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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