全世界が責め立てても彼らに寄り添います


                         テゼ共同体の受付カーサ。         (右端クリックで拡大
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                                                   見よ、石は転がされた (下)
                                                   マルコ16章1-8節


                              (3)
  復活のイエスが、「ガリラヤでお目にかかれる」と語られていることは、私たちにとっても大事なことです。

  今日もフランスのテゼのことに触れさせて頂きますが、そこには世界から多くの青年が集まります。私の経験から、恐らく今日のイースターも1万人程が集まっているでしょう。そのテゼに去年の夏、アラブ人居住区であるベツレヘムに住むユダヤキリスト者たちがテゼを訪ね、たまたま同じ週に、ナザレに住むアラブ人キリスト者たちも訪ねそうです。普通なら交流できないほど犬猿の仲ですが、2つのグループは共に正義と平和を求めてテゼを訪れたのです。イエスが甦らなかったら、こういうことは起こることはなかったでしょう。

  このアラブ人のキリスト者青年の一人が、「平和は私たち自身の中から始まります」と語ったのです。復活のイエスは、別の個所で、「あなた方に平和があるように」と弟子たちに語ったと書かれていますが、あなた方の中に平和がなければ、平和は生まれないのです。内に平和があるからこそ、それが外に向って出て行きます。復活のイエスガリラヤで待っている。そこでお目にかかれると語ったのは、弟子たちがキリストの平和に与り、平和を持ってガリラヤの普段の暮らしの中で生きるようになるためです。キリスト者として生きるとは、心に主の平和を持って生かされることです。

  家庭で、同じ屋根の下にあるがいつも衝突があったり、平和が失われている。魂に平和がない同士である。だが泉がふつふつと湧くように、どちらか一人でも平和が心に湧いているなら家庭は平和の場、喜びの場になるでしょう。あなたが救われれば、あなたの家族も救われますと書かれているような事が起こります。

  悪の力は命を奪うことです。死に至らしめることです。イエスは暴虐な力によって死に至らしめられたが、悪に打ち破られはしなかったのです。殺されたが悪に征服されなかった。彼は自分を殺す人たちと同じ次元で生きられなかったからです。相手の次元を超えて生きられた故に、報復に生きられませんでした。報復の連鎖を断ち、断っただけでなく、固い憎しみのコンクリートを溶かして行かれました。迫害する者たちを極みまで愛されました。憎しみしか湧かない所で、神の愛を、アガペーを貫かれたのです。

  ガリラヤで復活のイエスに出会う。復活のイエスとの交わりの中で生きるとは、そういう本当の意味での現実生活の新しさに与ることです。

  キリストの平和と喜びに与る。だが、それは理想や幻想ではないでしょうか。単なる美しい言葉ではないでしょうか。

  しかし、私たちは復活のイエスを仰ぐ時には、既にその喜びと平和に与っているのです。まるで暗闇に輝くともし火のようにイエスの平和と喜びを見つめる時には、心の中にそれが満ちて来ます。1週ごとに教会に来るのは、復活のイエスの言葉に接するためです。接すると平和が与えられるのです。キリスト教信仰が思想やドグマでないのは、思想やドグマと違い、平和と喜びのイエスに接するとそのように変えられるからです。

  精神疾患を持つ、本来ならパイロットの仕事に就くことを禁じられる状態であったドイツの青年が、3月24日、私の誕生日に大変なことを仕出かしてくれました。機長をトイレに行かせ、その後コックピットから締め出し、遂に149人の乗客を道連れに、アルプス山中に猛スピードで激突して自殺的行為をしました。結婚を約束していた恋人は小学校教師です。妊娠しています。青年の父親は銀行員、母は、母は…、町の教会のオルガニストです。皆から信頼され、慕われている両親です。

  その教会の牧師の話が向こうの新聞に載りました。むろん牧師はその母親をまたその地域社会での働きをよく知っています。こうありました。「彼には不利な事実が一杯あります。だが、この家族は私たちの地域社会に属しています。私たちはこのご家族に付き添い、彼らを抱きしめます。このことを隠しません。私たちはこの家族を支えて行きます。」

  世界的な事件を起こして酷評される青年の家族です。だが、彼らを強く抱きしめます。このことを隠しません。家族を支えますと語ったのです。

  アルプスの現場を訪ねた父親の姿を、その村の村長が語っています。日本の新聞によれば、「(父親が)惨劇の全てを両肩に背負っているような印象を受けました。疲れ果て、時折ひざまずき、涙ぐんだ。殆ど死んだかのようだった」と語っていたとありました。余りにも悲痛な事件です。

  「それでも人生にイエスと言う」という本があります。アウシュヴィッツ強制収容所では囚人番号で呼ばれ、あの収容所だけで100万人程のユダヤ人が容赦なくガス室に送られて殺されました。ヴィクトル・フランクルは妻子を亡くしますが、生き残って、あの極限状況を経験しながら、「それでも人生にイエスという」という講演を戦後にしました。精神医学者としてのフランクルの発言は、地獄のようなところを経験したに拘わらず、人の悪に負けず、ナチスに屈しない、深いところで人生を肯定する発言であり、世界に対するこの楽観的とも言える真摯な態度に世界は驚いたのです。

  ドイツのその町の牧師は、言わば「それでもこの家族の傍に立つ」と語りました。彼は青年のしたことを決して肯定していません。だが両親を責めることができるでしょうか。責めていいでしょうか。たとえ全世界が責め立てても、「私たちはどこまでも彼らと共にいる」と、この牧師は語ったのです。全く想像を絶したことが起こったが、この家族と共にいたい。私たちはこの家族を見捨てようと思わないということです。

  むしろ、彼らにも復活のイエスの平和を与えられるように祈りたい。間もなくイースターを迎える時でしたから、ぜひイエスの復活に与って平和を授けられて欲しいという思いだったでしょう。

  復活のイエスは、私たちとガリラヤで会われます。いかなる現実が起こっても、その現実の中で「あなた方に平和があるように」と言って出会って下さるのです。たとえ惨劇の全てを両肩に負ったとしても、です。

  3人の婦人たちはイエスの復活の報道を聞いて、この時は逃げ出しました。恐ろしくて誰にもこのことを言い出せなかったとあります。余りにも奇異な出来事で信じ難かったからです。だがこの恐怖がやがて喜びに変わります。それが喜びに変わるには、少し時を待たねばなりませんでした。すべての事には時があるのです。「神のなされる事は、皆、その時に適って美しい」のです。


       (完)

                                             2015年4月5日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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