薬物依存から立ち直り


                          テゼ村の古い教会。          (右端クリックで拡大
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                                                   見よ、石は転がされた (中)
                                                   マルコ16章1-8節


                              (2)
  それが、「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」いう言葉です。

  先ず不思議に思うのは、「弟子たちとペトロに」とあります。弟子たちと言えば彼を含むからそれで済むのに、わざわざペトロを加えています。ですから、弟子たちに告げなさい。中でもペトロには必ず告げて下さいと言う意味でしょう。

  何故か。ペトロは3度イエスを知らないと言いました。私は、決してあなたを知らないなどと申しませんと大見得を切ったのが彼でした。だが鶏が2度鳴く前に3度知らないと言ってしまった。挫折した。裏切ったのです。だから特にペトロに告げて欲しいと語ったのです。

  彼を追求し、こっぴどく咎めるためではありません。責めるためでなく再起を促すためです。彼も愛されていると必ず告げて欲しいからです。

  関西在住のある知人は万引きの常習犯でした。彼女は大学時代に薬物依存になり退学しました。親は会社社長です。困って仕送りの継続を頼みましたが、1度は送ってくれたものの以後は取り合ってくれず、姉に金の無心をしました。姉も1度は応じてくれたが、以後はダメでした。

  生活に困って万引きを始めたのです。生活保護を受けても、薬物はやめられなかったそうで、薬物依存は1度やっちゃうと囚われる人が多く、彼女はスーパーで、酷いですが何十回となく万引きをしたそうです。ある日、万引きしてスーパーを出ようとした時、手首を掴まれたのです。振り返ると若い女性ですが、逆手を取られて、外そうとしても外れなかったそうです。事務所に連れて行かれ、「ポケットの品物を全部出してくれますか」と言われて出すと、「これらを買い取って下さるなら、これでお帰り下さい」と言われました。2千幾らかだったそうで、3千円ポケットにあったので買い取ったそうです。すると、「初めてですね。今後もお客さんとしておいで下さい」と言われたのだそうです。何度も万引きしているのを知っている筈なのに、「お客さんとしてお越し下さい」と言われた。

  その時、トコトン堕ちてしまった自分を、「お客さんとしてまたお越し下さい」と、人間として温かく扱ってくれる人がいた。この温かい言葉が再起につながったと言っていました。トコトン堕ちてしまった自分と何回も言っていましたが、その言葉を聞いて思わず胸が熱くなりました。彼女はその後薬物中毒から抜け出そうとする自助グループにつながって仲間に助けられ、今は10年間クリーンを続けています。今も時々、辛い時や寂しい時などはスーと誘われそうになるのだそうですが…。あの地獄のような生活を思い出して踏みとどまるそうです。

  ペテロも彼の失敗を追及するんじゃあありません。イエスは今も愛し、赦しておられることを彼に告げて欲しいからです。彼の再起のためです。責めるだけでは再起につながり難(にく)い。愛がなければならない。皆、人は愛を求めています。親子関係で、妻と夫の間で、色んな人との間において皆、本当の愛を求めているのです。

  「そこでお目にかかれる」とは、単に見ることでなく、そこで再び会い、以前より人格的に深く出会うことです。私たちも以前より人格的に深いところで夫婦が出会っていく、親子が出会っていく。そういうことが暮らしの中で求められているのではないでしょうか。

  ガリラヤは弟子たちの故郷、彼らの日常的な暮らしのある所です。家族や日々の仕事、人々との交わりがある場所です。生前のイエス様もガリラヤで活動され、ご自身も支配者から税金を強引に取り立てられました。そこには暗闇に住む悩む民が多くいました。奴隷として売られた娘、借金を作って奴隷になる男、色んな病気や精神疾患、その他のことで苦しむ人や家族がありました。

  弟子たちはイエスを失い、普通ならガリラヤに帰っても精神的な孤児(みなしご)のように力を落とし魂の抜け殻のようになって生きるでしょう。だが復活のイエスは、あなた方より先にガリラヤに行かれ、周りに色々と苦しむ人がいるあなた方の暮らしの場で、お出会い下さる。

  もう一度申しますが、復活のイエスがあなた方を待っているのはこのエルサレムや別の場所でなくあなた方の日常の場である。どこか理想郷や世から離れた宗教の世界ではなく、あなた方の暮らしの只中であると言うことです。

  信仰は現実からの逃避ではありません。復活のイエスは、私たちと出会うべく、現実の場へと先立って行かれるのです。そこでこそ、私たちはイエスに出会って責任を持ち、人を愛し、葛藤があるが逃げず、慰めを与えられて、それを担う力を与えられて生きるようにして下さるのです。ある人は悩む力と言っています。悩みがないことでなく、しっかり悩む力が大事です。そこに愛があります。

  「そこでお目にかかれる」とは、必ずそこで待っておられる。案じるな、心配するな。恐れるな。安心しなさいと言う意味です。


       (つづく)

                                             2015年4月5日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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