まるで博物館の親切なスタッフですね


              日曜日の朝の祈りはキャンドルを灯して。和解の教会で       (右端クリックで拡大
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                                                   見よ、石は転がされた (上)
                                                   マルコ16章1-8節


                              (序)
  今日の聖書に、「安息日が終わると、マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメ」、3人の婦人たちは、「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」とありました。

  キリスト教でなく、ユダヤ教安息日は土曜日ですが、土曜日というのは金曜日の夕方から始まり土曜日の夕方までなのです。頭がおかしくなりそうですが、金曜日の日没から私たちが言う土曜日が始まるのです。そして、その安息日は一切の仕事が禁止されています。それで土曜日の夕方、日没と共に安息日が明けて日曜日が始まる訳ですが、3人の婦人は香料を買いに行ったのです。オリーブ油に香料を混ぜて遺体に塗り、臭いを消し腐敗を遅らすためです。

  そして一晩寝て、日曜日の「朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」のです。

  イエスを失い胸は張り裂けんばかり。悲しみのあまり悶々として眠れなかったでしょう。寝不足のまま重い体を引きずり、言葉少なく墓に向いました。彼らの胸には今なら、荘厳な悲しみの葬送曲が響いていたでしょう。

  墓は洞窟のような横穴式で、入口に男5、6人でやっと動かせる巨大な石の蓋があります。それで道々、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と」呟(つぶや)いていたのです。神がすべて配慮して下さるに拘らず、彼らは先のことを心配し、案じたのです。私たちを暗示しています。

  墓に着いて目を上げると、「石は既にわきへ転がして」ありました。3人は半ば喜んだでしょう。だがまた半ば怪訝(けげん)にも思いながら、墓に駆け寄り中に入って行ったのです。

  すると白い長い衣を着た青年が座っていたので、物も言えないほど驚きました。そうでしょう。ただでも人気のない寂しい墓場です。まさか奥に若者が坐っているとは思いもよりません。余りの怖さにガタガタ震えて、恐怖のあまり物も言えなかったようです。

  すると若者が口を開き、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と告げたのです。

  十字架に磔(はりつけ)にされたお方は復活された。「ここにはおられない。さあ、お納めした場所をご覧下さい。」丁寧にその場所さえ見せてくれました。まるで博物館の親切なスタッフみたいですね。だがイエスの復活の姿はどこにもない。墓はもぬけの空です。

  この青年は神の使いなのでしょう。彼は、「あの方はここにはおられない」と言ったのです。婦人たちは墓に泣きに来ました。過去のイエスにすがりつきに来たのです。だが御使いは、あの方は過去の中におられない。あなた方は過去のイエスに目を向けているが、イエスは復活され、あなた方の未来の中で出会われる。あの方は過去になってしまわれる方ではない。あなた方の新しい歩みは、復活のイエスとの出会いの中にある。過去は変わらない。変わらない過去にいつまでも囚われていてはならないと言う意味でもあるでしょう。

  「さあ、お納めした場所をご覧なさい。」よく見て、墓にいないことをよく確認して下さい。こう語って、次に今日の一番大事な言葉を7節で告げたのです。

       (つづく)

                                             2015年4月5日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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