洗礼はイエスの喜び


                     チームラボは光の遊びの空間でした        (右端クリックで拡大)
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                                                      主の僕 (下)ー2
                                                      イザヤ53章1‐12節
         

                               (2)
  しかし暴虐な裁きによって取り去られたのに、イエスには少しも恨みやつらみはありませんでした。むしろ「満足する」と11節にあります。これでよかったと満足されたのです。十字架に付けられながら従容として死に向われました。10節は語っています。「彼は自らを償いの献げ物とした。」その死は人類の罪の赦しのための献げ物であった。私たちの罪の償い、贖いのためであったということです。

  更に、「彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」とあります。

  「子孫」とは、キリストを信じる信仰の子ら、信仰の子たちです。彼らを通し、キリストは末永く世界に滞在し生きて行かれるのです。聖霊が彼らに働いて、生きて行かれるのです。

  「主の望まれること」とあるのは、ここでも主の意志を示します。神の意志は、キリストの死によって成し遂げられ成就するのです。ここでも、キリストの死は神の喜びであったこと、神の目に、甚だ良かったことが暗示されています。

  イエスが贖罪の献げ物として、喜びを持ってご自身を差し出されたのは、人類が子々孫々、末永く続くのを見るためだと言うのです。

  同様のことを11節は、「 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」と述べています。キリストは厳しい試練の中で死と苦しみを受けたが、その「実りを見て満足する」のです。苦しみの実りとは、やがてイエスの十字架の贖いは我がためであったと信じる人たちが生まれることです。イエスは私の主である、教会の主である、世界の主であると告白して洗礼を受ける人たちが出現することです。新しい人類の誕生であり出現です。

  キリストは、「それを知って満足」されるのです。洗礼を受けることは個々人の新しい出発であり、個々人の喜びです。だが、洗礼のもう一つの喜びの側面は、キリストが喜ばれることです。イエスの十字架が無駄でなかったこと。神に栄光がもたらされたからです。

  洗礼は私たちの喜びであるだけでなく、イエスの喜びなのです。また、私たちが洗礼を受けるのは、イエスご自身がバプテスマのヨハネから水のバプテスマをお受けになった、そのイエスに完全に連なることです。ぶどうの枝がその幹につながっていることに似ています。イエスが受けられた洗礼を私たちも受けることによって、イエスの仲間に入れられ救いの確かな喜びを得るのです。

  11節は更に、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」と繰り返し語ります。

  繰り返し語って来たように、「私の僕」とはキリストです。彼は、多くの人が正しい者、義とされるためにその罪を負った。身代わりとなって罪を引っかぶったのです。

  「正しい者とされる」とは、神の目から見た正しさです。人の目ではありません。主は、その信仰を見て義とされると言うことです。その人が清く正しい、聖人になったという意味でなく、イエス・キリストに属する人になった、彼との関係で清くされたと言うことです。誰が何と言おうと、イエスは彼を義とされると言うことでもあります。

  イエスが罪を自ら負って下さったから、神に赦され、義しい者にされたのです。ただ神の恵み、ただ神の憐れみと言うしかありません。

  そして最後の12節、「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

  「彼の取り分」と言い、「戦利品」と言い、「おびただしい人」とあるのは、みな同じことを指します。それは、イエスの名によって洗礼を受け、キリストに連なった人たちのことです。これ迄、歴史にあらわれた「おびただしい信仰者」、キリストに所属する人たち、暗闇から光の中に招き入れられた人たちです。

  以上、イザヤ書53章を通してお話ししてまいりました。不十分なお話しでしたが、これらを通して、この受難週の1週間、先ず、イエス・キリストがご自分をどう扱われたかということ、次に、人々はイエスをどう扱ったかということ、そして最後に神は、何を喜びとされ、何を「これで良し」とし、「甚だ良かった」とされたか。これらのことを黙想して行きましょう。また、これが私たちの生活と社会にどう関わりがあるのかを考えましょう。

  朝毎にみ言葉を味わう生活が信仰者の生活です。取れたてのキュウリにはカリッと歯ごたえのいい甘い味わいがあります。私たちはそんな畑を持っていませんが、朝毎にみ言葉を味わおうと思えば、朝、取れ立てのみずみずしいみ言葉を味わえます。無論朝の忙しいひと時、中々それができない方もあるでしょう。

  だが誰でも生きるには肉の糧が必要です。そのように人は魂の糧を必要としています。短いみ言葉でいいのです。今日を、み言葉によって生かされ、日毎の糧を頂いて行きましょう。そして神に祈り、神と交わって、日毎に新しい希望を授けられて進みたいと思います。

       (完)

                                             2015年3月29日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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