イエスの絶叫は極めて良かった


               まだ1才数カ月の生まれたてですって。名前はオトナロイドさん。
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                                                      主の僕 (下)ー1
                                                      イザヤ53章1‐12節
         

                              (序)
  今週は主の十字架と死を覚える受難週です。Holy Week、聖なる週と呼ばれます。今週も、先週に続いてイザヤ書が語るところを、そのまま、淡々と味わいたいと思います。

  その前に、先週のところを短く振り返りますと、イザヤはキリスト誕生の500数十年前に預言した訳ですが、それは後から考えるとイエス・キリストの姿としか言えない主の僕、苦難の僕の姿でした。

  7節まででしたが、このお方は王の王であられるが、人々から侮蔑され、見捨てられ、私たちも彼を侮蔑し、無視していたとありました。なぜそんな扱いをしたのかと言えば、彼が受けている苦難は言わば彼の身から出たサビだと、自業自得だと勘違いしていたからです。

  彼は、私たちの背きと罪のために、代わって刑罰を受けて下さっていたのに、自分のせいで神の天罰を受けているのだと思っていた。

  私たちが受けた神との平和、神との和解は、自分の努力と功績で手に入れたと思っていた。だが、実はキリストが身代わりになって、刑罰を受けて下さったから、平和と赦しが与えられたのである。

  彼は苦難を課され、全人類の罪の重荷を渾身の力を振り絞って一手に背負われたが、堅く口を閉ざし、嘆きもせず、一言も私たちを告訴されなかった。彼は低くされたが、彼自身が進んで低くなられたのである。

  そういうことが書かれ、今日は続きの8節からです。

                              (1)
  さて8節で、彼は「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」と語られます。英訳では「力ずくで命を取られた」となっています。前の口語訳聖書は、「彼は暴虐な裁きによって、取り去られた」となっていました。

  イエスがユダの裏切りに遭い、祭司長や長老、役人たちの手に捕えられ、大祭司の尋問とピラトの前での裁判にかけられ、十字架に架けられて処刑される預言と言っていいでしょう。

  総督ピラトは、イエスに何の罪も見出さなかったのです。だが祭司長や長老たちに焚きつけられ、扇動された民衆の怒声に押され、暴動になれば地位が危うくなるのを恐れて、彼はイエスを民衆の手に渡しました。彼は正しい裁きをしなかった。裁きを放棄したのです。まさに暴虐な裁きによって取り去られたのです。

  当時の人々は、そこで起こっている事を見抜けませんでした。8節の2行目、「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」

  「背き」とあるのは、端的に「民の罪のゆえに」です。自分の罪のために、罪なきキリストが神の裁きを受けていると、誰も考えなかったのです。私の身代わりとなって、神の手にお掛りになっていると誰が思い巡らしたであろうかと語ります。全く理不尽です。私たちが経験する世の理不尽の象徴であり、その典型です。

  そして9節、「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。」

  むろん、イエスは不法も暴虐も働かれませんでした。イエスは罪なき方です。偽りを語らず、真実を語って神を証しされました。だがその墓は、神に逆らう罪人らと一緒にされ、富めるアリマタヤのヨセフの墓に、この貧しい人が葬られたことを暗示しています。

  次の10節は、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした」と語ります。

  私たち罪人に代わって、「この人を打ち砕こうと主は望まれた」のです。「打ち砕こうと主は望まれ」とは、激痛を持って砕くことを望まれたと言う意味です。英訳聖書では、神は彼を砕くことを喜びとされた、これが主の意志であり、喜びであった。神はこれを満足されたとしています。

  キリストを砕くのを「主は望まれた」のです。これが主の意志であり、それを、主はヨシとされたことだという意味です。創世記1章の天地創造の物語の終わりに、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」とある言葉と重なります。キリストを打ち砕くことは、神の目に、「極めて良かった」のです。

  イエスは受難週の金曜日に十字架に付けられ、「わが神、わが神、何ゆえに、私をお見捨てになったのですか」と絶叫されたとあります。この解釈は色々ありますが、この10節からすれば、イエスの絶叫も甚だ良いことだったと言えるでしょう。神はその絶叫をヨシとされたのです。

  私たちが信仰によって義とされるのは、この絶叫をヨシとされたことに掛っています。

  ある俳人が、「叫びたし寒満月の割れるほど」と詠んでいます。底冷えのする寒の入りでしょうか。夜空にかかる満月が青く、氷のように冷え冷えと冴え渡り、まるで割れんばかりだと感じたのでしょう。

  これはイエスの十字架上の叫びを暗示しているかのように私は思います。北海道では真冬、非常に気温が下がると、森の固く凍った木々がカーンと鋭い音を立てて割れると言います。イエスの十字架上の叫びは、世界の歴史の最も寒い寒の出来事だったと言えるかも知れません。十字架上で、満月の割れんばかりの鋭い叫びを叫ばれた。その絶叫を、神はヨシとされ、同時に私たちの罪の贖いを完成して下さったのです。

       (つづく)

                                             2015年3月29日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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