彼は天罰を受けたと…思った


                          満開のミモザが咲く教会
                               ・




                                                  主の僕 (上)-2
                                                  イザヤ53章1-12


                              (1)
  今日は53章の途中、7節辺りまでを出来るだけそのまま、淡々と学びたいと思います。今日は余り脱線しませんので、どうか皆さんはイメージを膨らませてイエスが担われた苦難を、その愛の深さを思って下さい。

  先ず、この方の出生について1節は述べます。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。」

  誰が、私たちが耳にした事を信じえたか。神のみ腕の力、その啓示の働きを悟った者がいるか。いや、神が、歴史に介入してなされるのは、耳を疑うほど信じ難い前代未聞の事であると告げるのです。

  このお方は、乾燥し切った水のない砂漠に育つ木のように、パレスチナにはそういうカラカラに乾いた砂漠が多くあります。そういう悪条件の中に置かれながら、それにめげず、それを突き破って、まるで若枝のような活き活きと生命力をもって育ったのです。厳しい逆境に置かれながらも、人目につかない埋もれた所で踏ん張って根を張り、主なる神の前にやがて芽を出して育ったのです。神との生きた交わりをもって、逆境を切り抜けて生きる力を主なる神が授けて下さったからです。神の霊が彼の上に宿ったからです。

  これが500数十年後、やがて地上に来られるイエスです。ナザレで育ち、30才前後にガリラヤに出て、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語って宣教を始められるお方です。むろん預言者イザヤはそんな詳細な所までは知りませんが…。

  病める者や貧しい者、社会的にいと小さくされている者を、一人の人間として、神のアガペーの愛をもって慈しむ、愛による宣教です。「神の国はあなた方に近づいた。」既に、神のご支配があなた方の所に届いている。希望の時代が来た。だから悔い改め、考え方を180度神の方に方向転換して生きなさいと、愛と真実を込めて彼らに語り、病人を癒して行かれました。

  しかしながら2節半ばで、彼は、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」と語られます。

  彼は神の子です。神の王子です。だが、この世では見るべき面影はなく、輝かしい王子の風格も、好ましい容姿も尊厳も持たないのです。彼はセレブでも、ハンサムでもありません。人を惹きつける魅力や美しい姿はないのです。いや、誰も目もくれないし、一顧だにしない。むしろ軽蔑され、見捨てられ、多くの傷と病、痛みを身に負っているというのです。これがやがて来たり給うメシアだと語るのです。苦難のメシア、悲しみのメシアです。

  ですから、こんな姿の彼に神の恵みのみ腕が現われているのを誰が見たでしょう。彼は嘲られ、軽蔑され、最低の卑しい人物とされ、見捨てられるのです。彼は悲しみの人で、痛みと病を知り、苦しみに慣れ親しんでいる低き人です。低くなり給うた王です。

  この低くなられたお方が、「すべて重荷を負うて、苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と、私たちを招いて下さるのです。彼自身軽んじられ、苦しめられました。だから私たちの悩みも悲しみも苦しみも思い遣ることがお出来になるのです。

  私たちの方から彼を見ると、「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた 」と3節にあります。彼は私たちの悲しみと苦しみを負い、低くなって私たちを愛し、神に執り成し、私たちの罪を代わりに負っているのに、私たちの方は素知らぬ顔で側を通り、「無視していた。」

  4節には、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と 」あります。

  彼の自業自得だと考えていたということです。彼の受けている痛みや苦しみは、私たちのものであり、彼が担っているのは、私たちの悲しみであったに拘わらず、です。

  すなわち、彼が、私たちに代わって嘲られ、軽蔑され、卑しめられ、私たちの苦難を代わりに負って下さっていたのに、私たちは、彼の自業自得と考え、彼は神に打たれ、罰され、苦しんでいるのだと思っていた。

  私たちは深く考えず、彼は自分の罪か過ちで神の手にかかり、打たれて、苦しんでいるのだと思い込んでいた。彼が打たれ、苦しんでいるのは天罰だと、神の刑罰だと思っていたというのです。

  だが真相はそうではなかった。彼が刺し貫かれたのは、私たちの罪と背きの身代わりであり、身代わりになって、打ち砕かれ、刺し貫かれ、ボロボロにされたのです。彼は私たちの咎(とが)と背(そむ)きを、自分の責任として代わりに担って下さっていたが、私たちはそれに気づかなかったのです。

  イエスの愛はここに極まっています。彼はアルファでありオメガ、始めであり終わりであられます。私たちを底辺から愛される王です。

          (つづく)

                                             2015年3月22日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・