レントを失う者は1年を失う


                      東方正教会のほこらはテゼの黙想の場の1つ。
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                                                  主の僕 (上)-1
                                                  イザヤ53章1-12


                              (序)
  今は、キリストの受難と十字架、死を覚える受難節、レントの最中です。「レントを失う者は1年を失う」と言われています。今日と来週はイザヤ書53章を取り上げて、イエスの受難の意味を黙想し、一年を無駄に過さないようにしたいと思います。

  53章に入る前に、52章13節以下を読ませて頂きます。……ここには主の僕、苦難の僕と言われる人物の短い紹介が語られます。この僕は、500数十年後に来られるイエスであると考えられて来ました。

  「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」とあります。私とは神、主なる神です。ここに預言される主の僕は苦難の僕ですが、最後的に繁栄し、栄える方であると語るのです。

  「遥かに高く上げられ、崇められる。」主の僕は、最後には極めて高い所まで引き上げられ、崇められ、神として礼拝されるという預言です。

  ただ、この預言が示すもう一面は、高い所とは十字架のことです。高い所に引き上げられ、吊り下げられるということです。処刑場であるゴルゴタの丘のふもとに集った多くの人たちは、高く上げられた十字架のキリストを仰ぎ見るのです。

  また、「かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」と語ります。やがては高く上げられ、崇められる僕。繁栄し、栄えるお方ですが、今はその姿は何と、人の形を留めないほどにつぶれ、損なわれて、醜く、多くの人は彼を見て驚愕し、呆然となって口をつぐんでしまうというのです。

  「 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」

  やがて来る王は、ダビデ王のような方だと思っていた。ところがそうではないと分かって、王たちは唖然とすると言うのです。目の前に、これまで人が一度も聞いたことがない姿を見るからです。すなわち、人々の手にかかり、ボロボロになるまで嘲られ、殴られ、木に吊り下げられる神の子、王の王です。王たちも言葉を失い、口をつぐみ、前代未聞の事として唖然とするのです。

  イエス・キリストはそういう方です。そういう方としてイエスの十字架の愛を深く黙想したいのです。

  では何のために彼はそこまで侮辱され、損なわれ、人の姿を留めぬ程になって木に吊るされるのか。本来、高い所に上げられ、崇められるべき方が、どうしてこれ程に低くされ、卑しめられるのか。53章はそれを書きます。

          (つづく)

                                             2015年3月22日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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