罪のない人はいません


                          テゼの35才以上の集い         (右端クリックで拡大)
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                                                  青年Tへの勧告 (中)
                                                  1テモテ5章17-25節


                              (2)
  次の19節は、2倍の報酬を受けるにふさわしい長老とは正反対に、長老を訴える問題や、訴えられた長老の問題です。これは先ず慎重かつ厳しくあるべきだと言います。何故でしょう。神が定め、神が任命された長老は、いかなる闇の力も、その働きを止める事はできないからです。長老はそれほど重要な任務であると考えられたのです。

  ですから、「長老に反対する訴えは、2人あるいは3人の証人がいなければ、受理してはなりません。 罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります」と語ります。

  長老の責任は重大であるだけでなく、それは神の任命と考えられたからです。だから指導する長老に反対する訴えの採用は極めて慎重であれといいます。「2人あるいは3人の証人がいなければ」と訳されていますが、ある英訳は、「2人あるいは3人以上」としています。

  青年時代からの知人で、ある教会で長老をしている人がいます。その教会で、牧師の在り方に反対する訴えがありました。ところが牧師は訴えた長老をよくよく話も聞かずに自分の権限で長老から外しました。実にけしからん牧師だと思いますが、神が任命した長老を簡単に外したのです。そういうことが稀に起こります。何人かの証人がいたが握りつぶされました。

  そういう時に、この聖句が効き目を表します。「2人あるいは3人の証人がいなければ、受理してはなりません」とあり、3人いれば訴えが受理されると聖書に書いていると言えます。解釈の仕方では、「2人あるいは3人の証人」ですから、2人でも受理すべきでしょう。

  いずれにせよ、教会の問題が表沙汰にならないように牧師や長老が問題を握りつぶしたり、黙殺したりするのは、既にその教会は死につつある状態と言えるかも知れません。イエスの十字架と復活の恵みに与って、罪も咎も弱さも隠す必要はないのですが、それを隠して握りつぶす。教会はそういう愚かさを呈してはならないと思います。

  聖書は心の問題だけでなく、現実の人間の問題を扱っているのです。み言葉が受肉したということは、現実生活の中で御言葉が生き生きと働いているということです。

  ただ、現実は考えも及ばないことに満ちています。もう40年も昔、この教会であったことですが、大学紛争後、青年たちが去り、数人の青年が残りました。その中のある青年が総会で教会役員に選ばれたのです。ところが彼は、礼拝の司式でお祈りしないのです。牧会祈祷を飛ばして次の讃美歌に行くのです。それが問題になりました。問題になるでしょう。誰も祈りなしの礼拝を望みません。祈りなしの礼拝は講演会か演説会と同じです。

  すると他教会からこの教会に転会して来たある男性が急先鋒になり、こんな彼は役員をやめるべきだと鋭く論陣を張ったのです。青年の方は大学紛争後まだ傷が癒えず、「今はまだ祈れない」と言うのですが、男性は杓子定規に糾弾します。

  すると急先鋒のこの男性に味方する人が出てきて、数を増して行ったのです。そして、急に牧師批判へと矛先が向いたのです。その頃、大山教会は牧師の任期制を敷いて、5年、3年、3年…ということにしましたが、牧師追い出し運動に発展しかかったのです。この青年を擁護する牧師自体がおかしいからだと…。いけないのは、その尻馬に乗る人たちがいたことです。A牧師は大変苦しみました。その苦しみを一般の方は知らないのです。いずれにしろ、教会はこの青年の問題提起を受けて集会を開くことにしました。

  そうこうしている時、批判していた男性を中心に時々何人かが集まって相談していたようですが、彼は同調する何人かの婦人の一人とは特に意気投合して親しくしていました。ある時、その婦人のご主人が教会を訪ねて来て、A牧師に手紙を見せて、「これはお宅の教会員でしょう。こんな手紙を家内に送るような人をお宅の教会は育てているのですか」と言ったのです。熱烈なラブレターでした。

  これはいけないと、手紙を持ち、批判していた男性の奥さんに会ってそれを見せたのです。後はどうなったか、誰でも想像できます。このプロセスで分かったのは、この男性は実は転会して来た元の教会でも問題を起こして移って来た人であったということで、結局その後、板橋大山教会も出て行きました。ところが行った先でも、また牧師追い出し運動をしたのです。彼は結局、自分の神学的実力を皆に見せたかったのでしょう。そういう神学的素養を持った人でした。自分は牧師よりも上だぞと。かわいそうな人でした。お気の毒に、その教会の牧師は追い出されました。その後、この男性は癌で亡くなりました。

  小さなこの教会の歴史にも、そんな悲しい歴史が秘められています。人の為すことは罪に満ちています。いかに正しく清純な人も罪の中にあります。自分は義しいと主張するところに罪があるものです。罪のない人はいない、一人もいないと聖書にある通りです。ですから、決して安易に、急先鋒に人を裁くことはできません。実は、背後に隠れた祈りと愛がある場合があります。そういう祈りや愛は人の目に全く見えません。だが、見えないから、人は実に安易に裁くのです。裁きグセのある人は自ら肝に銘じるべきです。長老や役員や牧師のことでなくても、訴えは慎重の上に慎重でなければなりません。むしろ神に委ねた方がいいのです。だが委ねた方がいいと言いましても、それが教会や牧師の自己保身からであってはなりません。

  そうではなく、ただ神の栄光のために、今何が神から求められているか、それを真剣に祈り、示されて行動するべきです。「罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、ほかの者も恐れを抱くようになります。」そういう厳しさが要求されます。

  いずれにせよ、このような色々な事がありながら、この教会は手痛い試練をくぐり抜けて神様の憐れみを受けて現在に至りました。神の栄光のために真剣に祈る人たちが多くいたからであり、神の導きを堅く信じ抜く小さな群れであったからです。


      (つづく)
    
                                             2015年3月15日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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