あしたもおいで


          ブルゴーニュに戻ります。彼女のところで特別おいしい白ワインが造られるのです。
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                                                   身寄りのないやもめ (2)
                                                   Ⅰテモテ5章17-25節
        

                              (2)
  さて、今日の箇所は、1世紀後半の初期キリスト教会内の様子が垣間見られる興味深い所です。

  先ず、「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」とあります。夫と死別し、子供らも独立して、一人暮らししている高齢の婦人のことではありません。元の言葉は、「真の意味で身寄りがないやもめ」となっています。夫と死別し、家族はおらず、真に一人切りになった婦人です。

  この「大事にしてあげなさい」とは、人として尊敬を持って接することです。元の言葉は、価値や値段を表す言葉ですが、そこから尊ぶ、正しく高く評価する、敬うという意味に発展した言葉です。

  先週の火曜日のNA(薬物依存から回復したいと願っう人たちの集まり)で、ある人が、引きこもりになった青年時代のことに触れていました。たった一人になって部屋にこもり、社会の誰とも繋がりを持たず、そうなると誰からも必要とされていないと思えてきて情けなくなり、この先生きていて何の意味があるのかと思えて辛かった。憂さを晴らしたくて薬物に手を出し、覚せい剤やクスリの依存症になって行ったという内容だったと思います。

  古代の老婦人と現代の青年を同列に置くことはできませんが、夫と死別し、天涯孤独というか、一人切りの状態は決して精神的に良くないでしょう。だが、教会はそういう人たちを尊び、心を込めて大事にしなさい。あなたは掛け替えのない人ですよと語って、接してあげなさいと勧めるのです。

  また別の話ですが、この間のテゼの集いで、年末から年始にかけてチェコプラハで開かれた、テゼのヨーロッパ大会に参加した感想を、渋谷近くの教会に通っている若い女性に話して頂きました。5日間の大会のために1週間滞在したのですが、言葉が慣れず、スケジュールがビッシリ詰まっていて、その上海外は初めて。過酷な日々だったそうで、数人で行きましたがずっと孤独で辛かったようです。

  それでいたたまれないほど本当にきつかったのですが、大会半ばになって、一人の時間を持つことができ、ある日、少しだけ言葉の通じるシスターと話すことが出来たそうです。自由に通じるわけでないが片言で会話していて、シスターは、「私の心を聞いてくれました。私の存在に耳傾けてくれました。嬉しかった」と話していました。都内の教団の教会に通う人です。シスターはまた別れ際に、「あしたもおいで」と言ってくれたそうで、その時初めて、「プラハに来てよかった」と思えて、その後は、この大会に来て、「生きた命の水を飲んでいると思いました。また生きた水を飲みに来たいと思いました」と話していました。

  「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」とは、その存在に静かに耳を傾けること。「明日も私の所においで」と人を大事に受け止めること。人を価値あるものとするとはそういうことだと思います。

  この箇所は、単に接し方を言っているのではありません。16節にあるように、当時、「教会が身寄りのないやもめの世話を」していたのです。驚くべきことに、今日の老人福祉につながるような、教会福祉とでも言うべきことを2千年前の教会が率先して着手していたということです。これはイエス様のスピリットを汲んでいるわけですが、後でまた触れたいと思います。

  ただ教会が世話をするのは、真の意味での身寄りがないやもめであって、4節は、「やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです」と語ります。

  この方(ほう)は真に身寄りがないやもめでなく、子や孫など身内がいるやもめです。その場合は、親から受けた恵み、親の恩に報いることを子供や孫に学ばせるべきだと言うのです。前の口語訳聖書では、「孝養を尽くし」となっていました。

  孝養、孝行して親を養うというと古いとお思いでしょうか。だが考えてみれば、子が成人するまで、親に養育責任があるとはいえ、親から愛情と世話を受けた恩はどうでもいいのか。返礼はいいのか。一人の人間として、返さなくていいのかということは考えるに値するテーマです。私は今回、初めてこの箇所を取り上げましたが、私自身どれだけ親の恩に報いたかと反省します。

  ところで「恩」という漢字は、心の上に原因の因と書きます。因という漢字は、人が大の字になって大きな布団か囲いか土地の上に安心して寝ている姿です。「恩」は、心にしっかり支えられて、安心してその布団の上で大の字になって寝ている。支えられるのが当然と思って安心していますから、恩というのは、どんなに恩を受けても意識しないと気づかないのです。漢字というのは深い意味を含んでいます。

  この4節は意訳です。元の言葉は、子どもや孫に、「神を畏れて敬虔に生きること。神を敬い、家族を大切にすることを学ばせるべきだ」と語っているのです。即ち、信仰から出てくる家族愛です。あるいは感謝です。ですから、「それは神に喜ばれることだからです」とあります。

  無論これは、2千年前と今日では、随分様子は違います。2千年前には、老いたやもめは一人で生活するのは大変難しかったからで、子や孫が面倒を見ないならほぼ暮らせません。現代は必ずしもそうではありません。しかし、本質的な親子関係は昔も今日もほぼ変わりません。ただ今日では、子や孫がいても親が捨てられている色々なケースが多くあります。

       (つづく)


                                             2015年3月8日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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