素晴らしい触媒の働きをする障碍者


                         ブルゴーニュの田舎村にて
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                                                   叱らず、諭すこと(下)
                                                   Ⅰテモテ5章1-2節


                              (3)
  話はガラっと変わります。今、親や科学者が意図しデザインした、彼らが望むままの子どもを産むというデザイナー・ベイビーが一歩現実味を帯びて来ました。

  イギリスでだいぶ前から新聞に載り始めていましたが、日本の新聞がやっと先週取り上げました。それは、3人の親から子どもを作るということの問題性です。2人の親からではありません。3人の親です。前代未聞のこといで、多くの人は耳を疑います。

  最先端科学技術のなせる技ですが、夫婦の間で受精した卵子ミトコンドリアというものが異常だと分かり、先天性異常の子どもが生まれる可能性が高い場合、受精卵から異常のあるミトコンドリアを取り出し、別の女性の卵子の正常なミトコンドリアを貰って来て、受精卵に入れて、夫と妻ともう一人の女性と、3人の遺伝子を持つ子どもを産むという技術が合法か否かという議論です。イギリスでは下院議会で合法とされ、上院に上程されて大議論が起こっています。ミトコンドリアというのは車に譬えればエンジン部分だといいます。それを交換する。

  自然な中では色々な条件の中で、何人かに一人、先天性異常の障碍を持つ子が生まれます。それは万国共通でデータが示す客観的事実です。本来そういう子どもが生まれるようにされているのは、そのことによって人類は重荷を持つ子どもや大人とも共に生きる、思いやる、また人の悲しみを知り、苦労を知るということが起こるためだと、私は思います。連帯であり共助です。

  個人だけでなく社会全体も、そういう子どもや大人を抱えて共に生きるにはどうすればいいのかと、社会制度や社会の仕組みが工夫されていくのだと思います。即ち、今日のところが教えるような相互扶助、共に生きる共助ということが出てきます。それは愛に根ざした連帯のあり方です。神は、人類の連帯が大事だと思われて、弱い部分をお作りになったのです。そこで必要になるのが愛です。経済的発展が人類の最終目標ではありません。最大目標でもありません。

  むろんこの技術に賛成する側にも一理はあります。障碍を持つ子どもは本人自身が不幸だし、そういう子を持つ親も不幸であり、重荷であるからと言います。だから予め、できるだけそういう子は社会から排除しておこうという考えです。

  だが親が望むままに、お前は要らない、お前は必要だと、親が勝手に生まれようとする子どもをえり好みするのは、デザイナー・ベイビーに一歩近づきます。だが、これは自然の摂理に反しないか。自然と神への挑戦となり、冒涜でないか。一見マイナスに見えることを取り除くことは、長い目で見て本当に人類の幸福かということです。

  また、日本でも先進諸国でも技術が確立すれば、金持ちは幾らでも手立てを講じて先天性障害児を生まないようにできるでしょうし、その場合、貧富の格差が出生という時点において生まれるとすれば、実に恐ろしいことです。天皇家にも、安倍家にも先天性異常の子は絶対生まれないとなると、実に大きな歪みが生まれます。承知できない程の歪みになるでしょう。

  だが私は別なことも感じています。それは、先天的な障碍を持つ子どものお母さんたちは、何と人へのいたわりや感謝、また人の少しの思いやりを何と敏感に感じ取る心を持っていらっしゃるかということです。家内がメールを打つと、他の若いお母さんたちよりしっかり感謝の思いを届けて来られます。不思議ですが、元気な子どもだけを持っているお母さんとは違ったタイプのお母さんになっておられます。それは、そんなお母さんだからそんな子が生まれたのでなく、子どもがそんな障害を持ったから、そんなお母さんになられたのだと思います。そこが大事です。

  今、社会は、首相を筆頭に、震災復興に掛けて「ニッポンを元気にする」とか、「日本を一番に」という声が起こっています。その為に弱い者、手数のかかる者を除いていく、淘汰していくという声が出てきています。この声は日本を強い国にするという思想と連動しています。

  障碍自体は本人にも家族にも重荷であり、辛いところが多くあります。誰しもそれが正直な思いです。だが重荷や辛さを通して、人の考えは深められ、高められ、幅も出て来ます。個人だけでなく、社会も障碍を持つ人たちが存在することによって成熟していくのです。障碍者は社会が本当の意味で成長するための素晴らしい触媒の働きをするのです。

  キリスト教の歴史において、「強制された恵み」、「恵みの強制」という言葉は、大事なキー・ワードでありました。先天性障碍を持つ人を送って下さった神さまの恵みがあります。それを忘れることが一番怖いことです。重荷や苦しみを強制される中で、それがやがて恵みに転じるという恵みの強制という神の愛があるのです。

  イエス様はルカ福音書で、乳飲み子を招かれ、彼らを排除するなと言われました。全盲の乞食もお呼びになりました。人々は叱ったのですが、イエスはお呼びになりました。共に生きるためです。弱き者や障碍を持った者と共に生きる。その中にこそ人類の幅のある発展があり、人類の希望に満ちた成長があり、豊かな人類の内容が生まれるからです。

  キリスト教は古いしきたりや制度、人間を上から縛り付ける律法主義的な慣習などからの自由を説いて来られました。その点ではキリスト教は保守ではなく、革新です。しかし、自然を始めとして、神のお造りになったものをできるだけ守るということにおいては保守派です。保守でいいのです。保守と呼ばれて甘んじましょう。そのような保守こそ、今後ますます革新となるかも知れません。

       (完)

                                             2015年3月1日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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