渋さも深さも濃淡もある言葉で


                             テゼの坂道
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                                                   叱らず、諭すこと(上)
                                                   Ⅰテモテ5章1-2節
         

                              (序)
  今日は久しぶりにテモテへの手紙に戻りました。これはパウロの弟子で、若き伝道者テモテに送った手紙として有名です。後世の手がかなり入っていると思われますが、中心はパウロが宛てた手紙でしょう。

  それにしても今日と来週の箇所は、初期キリスト教会内の様子を垣間見ることができる興味深い箇所です。

  彼らはローマ帝国内のギリシャ文化圏で伝道していますから、その文化圏でどう聖書の言葉を実践していくか。今日の箇所で言うなら、「汝の父母を敬え」という十戒の教えを、異教が支配的な社会でどう実践するかが課題でした。異文化の中で、キリスト者として生きるとはどういうことかも考えさせられます。

                              (1)
  先ず「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」とあります。50代の練達の伝道者であるパウロが、愛弟子の伝道者テモテを諭した言葉です。「叱る」とあるのは、咎める、叱責するということです。

  なぜ人は、上からのそんな言葉で老人に語ってしまうのか。時代遅れだと思うからでしょうか。今の社会の流れをまるっきり知らないと思うと、裁いてしまうというのなら、それは古代も現代も同じです。年々回りの人が変わり、社会も変わると、以前の考え方は通用しません。それを厳しく裁いてしまう。

  「叱る」というギリシャ語は、元は尖った言葉、刃物ような鋭い言葉で語ること、荒々しく厳しい目つきで語ることです。私たちは、年取った人に対してだけでなく、そんな目つきや言葉で裁くことがあリはしないでしょうか。

  高齢者は見た目より言葉がスムーズに出てきません。強い言葉で叱られたら頭の中が真っ白になり狼狽(うろた)えてしまいます。若い方もそういう方はあるでしょうが、言いたいが、咄嗟に言葉が浮かばない。アー、ウーと言って、その先言葉が出て来ないのが高齢者一般の傾向です。2、30年前の若い時ならもう少しテキパキものが言えたのに、今はうまく言えないと思うと、羊のように大人しく引き下がったりするのです。

  しかし、老人は穏やかに話しかけると、80年、90年歩いて来た道を振り返り、若者が思いもかけない味のある言葉で、貴重な経験を話し出されます。若い世代は若い世代なりに新鮮な経験を話しますが、老人は試練を経ているので渋みも、深みも、濃淡もある言葉で、思いがけない宝を話してくれます。

  白十字ホームに先週も参りました。特別養護老人ホームですから色々な病気や不都合で、一人で生活できない60代から100才前後の方まで入っておられます。目の前の方はよぼよぼしていて、私たちは今の彼らの姿、それだけを見がちです。若かりし頃の活躍していた姿は見えず、知りません。そのため、弱く、壊れやすく、愚かになられた姿だけに接します。中には強情になってしまわれた姿や、不平ばかり言う姿に接します。

  時々、老人ホームの入居者に対してスタッフが起こす暴力的な色々な問題が報道されますが、その原因の一つは、過去のその人の姿を知らないために、人の尊厳を軽んじ、尊敬を忘れた振る舞いになってしまうということがあるのでないかと思います。他の人でなく私自ら反省します。

          (つづく)


                                             2015年3月1日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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