魂の産声(うぶごえ)


                        鶏が遊ぶブルゴーニュのお庭で       (右端クリックで拡大)
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                                               エリコの道端であった事件 (下)
                                               ルカ18章35-43節
         

                              (3)
  この事件は、私たちに何を語ろうとしているのでしょう。奇跡でしょうか。信仰のもつ素晴らしさでしょうか。偉大なイエスの力でしょうか。

  ここはやはり直前の大金持ちの議員や弟子たちとの関係で読むべきでしょう。イエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われ、弟子たちは、「では、誰が救われるのだろうか」と疑いました。

  イエスの言葉への彼らの疑いに対し、盲人は素直に信頼したのです。「人にはできないが、神にはできる」という信頼です。イエスへのこの信仰、信頼が神に義とされ、癒されたのです。だからイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。不可能をも可能にして下さるとの信仰。人には出来ぬが、神には出来るという信頼。その時、イエスは彼を癒されたのです。

  マルコ福音書の並行記事を見ますと、彼は、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」と書かれています。物乞いで集めたお金が入っている服をもそこに投げ捨てたまま、イエスのところに駆け寄った。ここに彼の信仰が如実に現れています。お金でなく神への信仰、信頼。それが救ったのです。金持ちの議員が躊躇したことです。

  彼はその後、「神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります。彼は福音を僅かに理解した。それだけで従ったのです。

  このことは、私たちに生き方や信仰のあり方を示唆していないでしょうか。私たちはほんの少し福音を理解すれば、それを生きることが大事なのです。日々生きるに必要なエネルギーは1800~2000カロリーと言います。女性はもう少し少ないですか。誰も一生生きるエネルギーを先ず貯めてから生きるのではありません。今日生きる少しのエネルギーだけを摂取すればいい訳です。今日だけでいい。今日だけ。これが大事です。信仰においても同じで沢山いらない。少し理解できたもので生きればいい。それで十分。今日希望を抱いて生きるエネルギーを与えられれば十分。この男はそれをしたのです。

  洗礼も、ほんの僅か理解すればいいでしょう。ここに本物があり、自分を支える何ものかがあると思うなら、洗礼を受けていいのです。直感です。新約聖書が、旧約聖書が、またキリスト教の教えが全て分かってからというのは違います。新旧約聖書全巻を読むのが洗礼の条件ではありません。よく分からなくていい。洗礼は、今から従って行く一歩であって、その一歩を始めなければ何も始まらない。イエス様、私を導いて下さいという第一歩、第1声を洗礼で表すのです。魂の産声です。

  イエスは、神様の憐れみを必要とする者を知っておられて、お呼び下さいました。今日のこの彼は、盲人になって自分の心の闇を知ったのでしょう。この盲目から、この闇の世界から救い出して下さいと願った。それがイエス様に届いたのです。

  詩篇51篇に、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。…御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」という祈りがあります。

  彼は人生を歩く確かな霊を授けて頂きたかった。み救いの喜びを再び味わわせて頂きたかった。だからイエス様の所に行ったのであり、従ったのです。私たちもそうではないでしょうか。

  魂に、救いの喜びを味わわせて頂こうとして、魂に確かな霊を授けて頂こうとして、信仰の一歩を歩みだす。そういう歩みをして行きたいと思います。


       (完)

                                             2015年2月22日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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