アッパレ とび職さん


                        ブルゴーニュの田舎村にて(2)        (右端クリックで拡大)
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                                                   受難予告と私たち (下)
                                                   ルカ18章31-34節


                              (5)
  イエスはこの受難と復活の予告で何を語ろうとされたのでしょう。金持ち議員との対話から続いて来た「捨てる」ことに関しています。イエスは捨てよと議員に語られましたが、そう語ったあと今日の所で、自らを捨てることを予告されたのです。

  イエスは、ご自分を真の意味で捨てられます。ご自分の死がたとえ無駄になっても、人々に受け止められなくても、効果がなくても、無償の愛を献げられるのです。それがアガペー、神の愛です。弟子たちもこの時は理解できません。しかしイエスは捨てて行かれます。イエスが世に来られた目的はここにあります。ローマ書5章はそのことを、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」と書き記しています。

  イエスがご自分をお捨てになるのは、人々を生かすため、私たちに命を授けるためです。ご自分が生きるためではありません。彼らを罪の力から守るため。しかも命を張って守られるのです。私たち隣人を救うためにご自分をお捨てになります。自己実現のためでありません。自分を救うためではありません。私たち人の命を、魂を、罪の力から救い出すためです。そのために命を張って、渾身の力を振り絞って救い出されます。だから私たちの礼拝も真実であるべきなのです。

  金持ち議員は自分のことにだけ目が行っていますが、イエスは、ご自分の救いでなく、隣人の、全世界の人々の救いのために生きられるのです。

  イエスは捨てられます。だが恨みを一切持ちません。私たちなら、弟子たちにも当時の宗教家や群衆たちにも恨みを抱くでしょう。赦せないでしょう。だが、イエスは恨みでなく、愛へと突き出て出て行かれたのです。人々に喜びを与え、希望を授け、生かすため、愛へと突き出ていかれるのです。

  イエスには一度も、敵を滅ぼし、殺せという命令はありません。新約聖書のどこかに、敵を滅ぼせ、殺せという命令があるでしょうか。そこがユダヤ教イスラム教との根本的な違いです。そこにあるのは、ただ愛だけです。

  イエスは最後に十字架に付けられることを敗北と考えられません。これは、この世的に見れば非常に不思議です。それは、十字架の延長線上に死を超えた勝利があり、復活、即ち終末的な最後決定的な勝利があるからです。終末的な勝利を信じる故に、体を張って、十字架さえ敗北と考えず、私たちの命を守って下さったのです。

  絶対平和のキリスト教思想はここに源があります。私は必ずしも絶対平和主義を取りません。ナチスのようなものには武器を取るべきです。だが平和主義を守るべきです。イエスにあるのは、相手を倒すことの放棄です。イエスの非戦論は思想であると共に、生活であり、人生です。

  「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」とありました。旧約の預言は、ここにすべて成就すると言われたのです。いわば、旧約で語られたすべての重要な預言の流れが、大きな大河も、小さい小川も、イエスの中へと流れ込んで実現するのです。このお方にこそ、神のみ心が一つに収斂しているのです。

  時の中心。それがイエスという方です。歴史はB.C.から紀元ゼロ年へと収斂し、イエスという方からA.D.へと向かいます。イエスにおいて収斂したものが、やがてイエスから恵みが方々に溢れて全世界に広がり、全人類にあまねく満ちていくのです。それは憎しみの連鎖が絶たれるためであり、イエスの絶対平和のあり方において、世界に初めて平和が築かれるからです。やられたらやり返せ、ではありません。目には目を、歯には歯をではありません。

  私たちはテロや凄惨な事件があふれる狂ったような時代に生きていますが、光は闇の中で輝いており、闇は決して光に勝ちません。イエスの平和はやがて築かれて行くでしょう。それを信じてよいのです。また、信じていきましょう。

  全ての人達は平和と幸いを求めているのではないでしょうか。先週、ビバホームに行って、疲れたので休憩所に座って、ジュースを飲んでいましたら、横に年配の人が座って、長靴を脱ぐような仕草をしていました。

  ハテ、何だろうと思って見ますと、左足がないのです。それで義足を脱いでいたのです。思わず事故ですかと聞きました。

  バイクに乗っていて、自家用車にはねられて、17m跳ね飛ばされたそうです。幸いヘルメットをかぶっていたので、頭は大丈夫でした。約30年前のことで、今75才。40数才の頃です。仕事は何ですかと聞きますと、「トビです」と言います。何ヶ月かの入院とリハビリの後も、最近までトビをしていたと聞いてびっくりしました。

  トビというのは建築現場で足場や鉄筋を組んだり、高いところで仕事をしたり、足元がフラついちゃあならない重労働です。義足を見せてもらいましたら、重く3キロ程ありました。持ち上げてみて、思わず、「アッパレ」と心の中で叫びました。切断された足の方にボルトのような金具があって、これはフィンランド製だそうで、義足の方の金具はドイツ製だそうです。国際色豊かに彼は支えられていました。それをはめて、退院後も何十年も他の人に負けじと鳶職をして来たそうです。

  仕事を辞めた今、毎日何千歩か歩いているそうで、まず朝早く、お宮にお参りするそうです。

  全ての人は平和と幸いを求めているのではないでしょうか。イエス様は、その平和と幸いが、自分だけのものでなく、全ての人のものになるように、ご自分を捨て、十字架に付き、復活されることを予告されたのです。


           (完)


                                             2015年2月15日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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