満願の感謝をささげました


                    デビッドくんはパパとママに可愛がられています
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                                                   受難予告と私たち (中)
                                                   ルカ18章31-34節


                              (3)
  イエスは、「 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭(むち)打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」と予告されました。

  異邦人とは先程「信仰告白」で読みましたように、ローマ総督ポンテオ・ピラトのことです。最後には彼が死刑判決を下します。「侮辱され」とは、元のギリシャ語では遊び戯れる。侮辱の歌を歌ったり踊ってはしゃぐことです。

  イソップ童話に蛙と子供の話があります。子供らは池に石を投げて面白がって遊んでいます。だが池に住む蛙たちには危ないと言ったらありません。子供たちは石を投げて歌ったり、踊ったりですが、蛙の方は命がけです。兵士は踊ったり戯れたりですが、イエスの方は命がけです。

  そして「乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」とあります。歌で囃し、戯れていたが、それに飽きると最後は、吐き捨てるべき最低の奴と、唾を吐きかけたのです。

  この時のイエスを理解するには、自分の父や母が、何人かに侮辱され、殴られ、唾を吐きかけられる場面を思い浮かべればいいでしょう。いたたまれないでしょうね。屈辱感と怒りで一杯になるでしょう。それがこの場面です。

  「鞭」には、ユダヤの鞭とギリシャの鞭がありますが、ギリシャ人の鞭は、革の鞭が何本か束になったもので、それぞれに尖った金属の重りが幾つも付けられていて、それでビシッ、ビシッと鞭打ちます。

  痛さの問題だけでなく、鞭打ちによっていかに体力が消耗するかの問題でした。イエスは体力の限界まで鞭打たれて、自分の十字架を担わされ、処刑場に向かわせられて、殺されました。しかし予告はそこで終わらず、「そして、人の子は三日目に復活する」 とイエスは言われました。

                              (4)
  「預言者が書いたこと」とは詩編22篇やイザヤ書53章などを指しています。やや長くなりますが、今日は先ほど交読したこの詩篇22篇を紹介します。

  最初の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」これは、十字架上でイエスが叫ばれた「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という言葉です。イエスは十字架で22篇の冒頭を叫ばれたのです。これに続く、「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」という言葉以下も叫ばれたでしょうが、書き留められなかったか、体力が消耗し切って、その後は声にはならなかったからです。

  7節の、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」という言葉は、長老、祭司長、律法学者ら、ユダヤ人らの侮辱の言葉に反映して行きます。

  次の、「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』」 これは、民衆や兵士たちが吐いた嘲りの言葉に似ています。

  11節の、「母が私をみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」は、苦しめる者の間でも、イエスが抱いておられた信仰です。 堅忍不抜の信仰と言っていいでしょう。

  13節以下の、「雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。」これは長老、祭司長、律法学者、そしてローマの官憲ら、当時の宗教権力と政治権力が寄ってたかって浴びせる集団的な情け容赦ない、鋭いドスのような言葉を預言しています。

  15節以下の、「わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」これは、十字架で血が流れて体から水分がなくなり、極度の脱水状態の中で素焼きのカケラのように口がカラカラに乾き、舌は上顎に張り付いてしまうことです。

  その中にあってなお、「主よ、あなただけは、私を遠く離れないでください。…今すぐに私を助けてください」と叫ばれるのです。

  イエスは「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と、神に恨み言を言ったのではないのです。

  24節以降で、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ」とあります。イエス詩篇22篇を唱え、最初は「我が神、我が神、何ゆえに」で始まりました。だがこの詩編は、やがて神の御名を賛美することへと至り、更に「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ」という群衆への呼びかけにまで達して行きます。

  その呼び掛けは、「イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。…それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます」となるのです。

  福音書を見ると、イエスが十字架にかけられた時、多くの群衆が処刑場のゴルゴタの丘を取り囲みました。イエスはその群衆を、「大いなる集会」に見立てて、神に、私は大集会で、「賛美をささげる」、「満願の献げ物をささげます」と言われたのです。十字架に付きながら、神に賛美をささげられる。なんと偉大な魂でしょう。全ての願いが叶って、喜びの内に献げられる満願の感謝の献げ物です。神への恨み節ではありません。十字架上で、神への全幅の信頼を献げますと大胆に語られたのです。

  このような偉大な人物はかつてもいなかったし、今後も出ることはないでしょう。十字架の叫びの言葉は、信仰の耳を持って聴くなら、22篇の感謝と賛美の言葉が聞こえて来ます。


           (つづく)


                                             2015年2月15日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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