喜びの泉が湧いてきます


                         Ameugny村の民家(4)         (クリックで写真拡大)
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                                                  捨てる (下)
                                                  ルカ18章28-30節
         

                              (3)
  では、決して赦せない親や兄弟、また夫や妻、その他身近な人などにどう接すればいいのか。

  簡単に言えば、彼らを捨て、離れるには、やはり彼らを赦すことです。彼らを神に委ねるのです。すると彼らへの感謝も持てるのです。ベタベタ感謝するのでなく、彼らから自立した一人の人間として、改まった思いで感謝するのです。

  あるキリスト者夫婦は、彼らが子供を失って悲嘆に暮れ、妻が鬱にもなり、神を呪う思いにさえなりましたが、最後には子供についてこう思うようになったのです。私たちは大切な子供を神様からお預かりしている。だから、彼らを手の中に握り締めず、手のひらを広げてその上でお預かりしています。子供を失うことで学んだのです。無論子供をぞんざいに扱うとか関心を示さないということではありません。手のひらを広げて、握り締めずにその上で大事にお預かりしています。その思いになった時、やっと心に平和が来たのです。味わい深い言葉です。

  同様のことを別の人はこう書いています。子供たちは私たちの所を訪ねた、本来「見知らぬ客」たちです。確かに生まれた時、この子はどういう性格か、どういう癖の子か、どんな人生を選択するのか分かりません。そういう見知らぬ客ですが、彼らは何ら遠慮なく甘え、もてなしを求め、友人になることを求め、その後、再び「彼ら自身の旅」を続けるために去っていく。その後は殆ど振り返らずに離れていきます。これも正鵠を射た言葉です。

  確かに子供たちはそうです。もしそれを引き留めようとすると子離れできぬ親になり、更に手を強めると、親離れできない悲惨な子供にしてしまうでしょう。そういう親が今日、多くいます。

  ところが、この金持ち議員は、色々なものをたんまり握り締め、その上、永遠の命も握り締めたいと思ってイエスのところに来たのです。だがイエスは、それらを神にお返しなさいと語られたのです。彼は顔を曇らせました。だがイエスは諦めず、モノは神ではない、この世のいかなるものも真の神ではない。地位も力も議員資格も、才能も神とはならず、あなたの救い主ではない。それらは神から一時お預かりしているものであって、それらは神のものである。だから、それらと距離をとり、主にお返しし、あなた自身を真の神にお返しして、あなた自身が私に従い、真の主の下で生きなさいと言われたのです。

  激しい憎しみも怒りも、それを自分の主(あるじ)にして大事に奉(たてまつ)ったり、最後の切り札として懐に入れていてはならない。それを神にして、その下に支配されてはならない。憎しみを握り締めるのでなく、それを捨て、それを断ち、自分の手から解き放ち、即ち赦し、彼らを自分のところから去らせなさいと言われたのです。それが愛です。断つことが愛です。

  相手を赦す時には、赦そうと決断するやいなや、自分はその人によって育てられたことや、完全ではないにしろ大事にされたこと、学校にも通わせてもらったこと、健康も栄養も授けられ、安全に生活できたこと、いや、色々と与えられたこと、楽しいこともあったことを、多くも少なくもなくありのままの事実を、その人から自立した一人の人間として感謝できるでしょう。赦すときに人は精神的に自立するのです。そして赦せるのは、イエスが私を赦して下さったからで、私を保証して下さる方が背後におられるからです。

  「はっきり言っておく。神の国のために、家か、妻か、夫か、兄弟か、両親か、子供かを捨てた者は」、神から祝福を、何倍もの報いを受けると言われるのです。あなただけでなく、双方にとって祝福となるに違いないのです。屈折した感情を、「捨てること」、相手を「赦すこと」、自分の記憶からマイナスの感情を「解き放つ」ならば、祝福が2倍、3倍、いや何倍にもなって返ってくるに違いないと言われるのです。

  この世では何も返って来ないだろうと思うのは、余りにも悲観的です。私たちは持っているマイナスの感情を、ため込んだ重い感情を捨てるなら、少なくとも私たちの心は軽くされ、明るくされ、マイナスの暗い感情から解き放たれるでしょう。相手がどう思うかは別です。相手がどう変わるかは別の話です。そこまで私たちの責任ではありません。こちらがキリストの前でどう生きるかが大事です。

  そのようにして行く時には、微かであっても喜びがあなたの心に訪れ始めるでしょう。そうです。喜びの泉が心にあなたに生まれるのです。砂漠だった所に泉が湧くのです。聖書にそういうことがあちこちに書かれていますが、どこからとも知れずフツフツと喜びが湧いて来るでしょう。そうです。それはイエス様に従った事から来る喜びです。他の人がどう変化するかでなく、イエス様のお言葉に従ったのは正解であったという確信から来る、静かな、だが確かな喜びです。

  今は真冬ですが、冬の厳しい日々の中にも春の前触れのような日があるように、それは永遠の命の前触れと言っていいでしょう。今日はここに、ミモザとゴールデンクラッカーを活けました。付近を散歩しても殆ど花は咲いていない時期です。でも、狭い教会の庭に真っ先に春を告げるこれらの花が咲いたのです。そしてこの春の前触れに与り、そして今、永遠の命の先駆けに僅かに与りながら、やがて真の意味で永遠の命にすっかり与るようにさせて頂けるという希望が湧いてくるのです。

  復活のイエスは、弟子たちに平和を与えると約束されました。イエスはこの議員にも、キリストの平和に与ってもらいたかったのではないでしょうか。

         (完)
                                             2015年2月8日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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