捨てることと赦すこと


                          Ameugny村の民家(3)         (クリックで写真拡大)
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                                                  捨てる (中)
                                                  ルカ18章28-30節
         

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  今日は、イエスが最後に言われた、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」という言葉を中心に、特に「捨てる」ということに関して福音をお聞きしたいと思います。

  先ず、かつて若い頃の私はこの言葉を、イエスに従うために、神や神の国の為に、家や家族や、自分が属して来たもの、過去を捨てなければならない。それらを手放さなければならないというふうに考えていたと思います。未だキリスト教に出会わない、あるいは出会って暫くの10代後半から20代前半の自分です。無論今も、捨てるということには十分真理契機があるし、その意味をすっかり無くしてならないと思います。

  例えば、子供は親の財産、遺産に頼るような人間になっちゃあならない。親を離れいわば親を捨てる気概を持って欲しいです。独立的であってほしい。頼るような子供に育ててはならない。親の方も子供に財産や遺産を残せば、いい人だったと思われるなどと子供に媚びたり、依存的になっちゃあならないのでないかと思います。どっちも独立的であった方がいい。

  しかし、「捨てる」という事は、考えて見れば実に恐ろしいことです。信仰のために夫を捨て、妻を捨て、親を捨て、子どもを捨て、すっかり捨てるというのなら裸一貫、丸裸になってキリストについて行くということです。自分はそれで良いかもしれませんが、捨てられた側は捨てられたという思いと、裏切られたという思いを持つでしょう。しかし青年は荒野を目指すと言われる通り、若い頃は誰しも一途ですから、思い込むとググッと行きます。その頃の私は、それでもいいではないかと思っていたと思います。

  その頃の私は、深刻なニヒリストでしたし、ペシミストでしたから、こんな自分などは捨てていい。どうなってもいいという所がありましたので、完全には捨て切れていないのに、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」という言葉は、心地よさも同時に伴って、そうしたいと思いました。

  仏教の出家に近い考えで考えていたと思います。それで、一切を捨てて、神のため、キリストのため、神の国のために生きるようにならなければならない。キリストはそこまで求めておられるというふうに考えて、ですから、自分の中には、人には言いませんが、内心、それが出来ていない自分を責める思いが常にありました。ですから、苦しかったと思います。ただそこまで思わないと、保障された大企業を捨てて牧師の道を選ばなかったでしょう。

  因みに、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者」というのは、元の原文は「神の国のために、家か、妻か、兄弟か、両親か、子供かを捨てた者」となっています。全部まるごとと言っているわけではありません。しかし青年時代の私には、そんな微妙なことはどうでもよく、キリストのためにはどうなってもいいと思う所があったと思います。

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  しかし今は、イエスが「捨てよ」と言われるのは、もう少し深い別の意味も持っている気がします。無論信仰には、「神の国のために捨てる」の意味はあります。だが別の意味合いも含んでいると思うのです。

  そうでなければ、お金や地位や名誉など、あらゆる立派なものを獲得し、更にもっと所有することを懸命に考え、その為に努力し、救いも永遠の命も自分の手に入れたいと考えていたこの金持ち議員が、イエス様の「捨てよ」との言葉に、非常に悲しみましたが、その姿を目にされて、彼が単に「捨てる」ことでなく、もっと深い生き方をするようにと、先週お話しました24節から27節の、ラクダの話や「人にはできないが、神にはできる」という言葉を語られはしなかっただろうと思います。

  本題に入りますが、私が今お話しようとしていることは、私も含め、多くの人達は、親や、兄弟や、夫や妻、また子どもなどとの関係で、色々積もり積もって来た屈折した感情を持ち、それに引きずられたりそれに囚われたりして、その感情を捨て切れないで生きているからです。中には、決して家族を赦せない、赦さないと、苦々しい感情を持っている人たちもいます。

  家族の間の人間関係は、楽しくもありますが失望や時には怒りもあり、甘えもありますが、時にはバトルもあり、決して赦せないといった激しい感情さえ露骨に出たりします。しばらく顔を合わせないでいると懐かしく、無性に会いたくなる。だが暫く一緒にいると行き違いが起こり、もう2度と会わないなどと発言してしまう。そういう兄弟とか親子とか身近な者を持つ人たちは無数にいます。

  ある人は、両親がもういないのにまだ両親を赦せず、しかも親から離れることができないでいます。親の考えで縛られています。またある知人が、自分のお骨は主人の何々家の墓に決して収めたくないと言っていたのを思い出します。夫の家との葛藤がずっと尾を引いて、それを捨てられないのです。

  実は「捨てる」という元のギリシャ語は日本語より広い意味があって、アフィエーミと言いますが、「赦す」とか、「自由にする」という意味も持っています。罪を赦すという言葉も、捨てるという言葉も、解放するという言葉も同じアフィエーミという言葉です。神の国のために、家か、妻か、兄弟か、両親か、子供かを「赦した者」はだれでも、 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受けると訳せるのです。

  ですからこの箇所を、色々な過去を背負って生きている私たちに、イエスは、神の国のために、ここに挙げられている身近な者を「捨てた者、赦した者は」と語って私たちを招いておられると考えると、イエスの言葉はこれ迄とは違った新鮮な意味をもって迫って来ます。「神の国のために、捨てよ、赦せ」という言葉は、大きな励ましになります。「神の国のために」捨てていいのです。赦さなければならない。これは、これまでの生き方の新しい転換点になると思います。

  即ち、イエスは捨てよと単に言われたのでなく、あなた方は彼らを赦し、彼らから自由になりなさいと語られたのです。

  神の国のために、家や、妻や、夫や、兄弟や、両親や、子供などを自由に解き放ち、こちらも彼らから解き放たれて自由になる。また彼らとの間で起こったトラブルや怒りや、言い過ぎたことや、受けた傷や与えた傷、その色んな傷を、自分に対しても相手に対しても赦すことが、ここで言われているのです。即ち家族や身近な者への愛の問題です。

  憎しみや感情のもつれから起こった彼らとの関係を、神の国のため、神のために赦す。そして彼らから自由になり、彼らを自由に解き放つ。そういうことです。それが捨てるという意味です。

         (つづく)

                                            2015年2月8日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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