神が働かれるスペース


                            Ameugny村の家々(2)        (クリックで写真拡大)
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                                                   ラクダ、針穴を通る (下)
                                                   ルカ18章24-30節


(前回から続く)

  では、どのように可能なのか…。

  この後の段落には、イエスの3度目の十字架と復活の予告がありますが、イエスが世に来られ、神が人となり十字架に磔(はりつけ)にされ給うたのは、私たち人間は自分を救えないが、神はそれをして下さる。神には何でもお出来になるということをその身で示すためです。

  インドの最も貧しい人たちのために長年働いたあのマザー・テレサさんは、しばしば神の不在を感じて凄く深い闇に襲われたそうです。だから彼女は闇の底から天の神に祈ったのです。祈りなしに、あの使命を果たすことはできなかったのです。

  先週箱根であった牧師たちの研修会で、講師の方が、「神に親しめば親しむほど、霊的孤独に陥る。また神の不在を感じる」と言われました。私たちは自分の力で自分を救うことはできないからです。神の不在です。お金だけでなく、地位も功績も、仕事も実績も、努力も才能も、どんなものも自分を救う力を持ちません。神の不在を思わずにおれません。

  マザー・テレサだけでなくそのシスターたちも、毎朝、貧しい人たちへの奉仕に赴く前に、必ず聖餐に、カトリックはミサと言いますが、それに与り、パンとぶどう酒で霊的にキリストの体と血に与って、力を頂いてから出かけるのです。力を頂いても人間にできる訳ではありません。人間にはできない。だが、神にはできる。神がそれを成し遂げて下さる。だから彼女たちはパンとぶどう酒に与って出かけるのです。救うのは神であって、私たちではありません。徹底的な無力の中で、神が働いて下さる時を待つのです。

  イエスは成長する種の譬えの中で、人が土に種を蒔く。「夜昼、寝起きしているうちに種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる」と言われました。全ては神の業です。私たちが眠り、私たちの不在の中で、神が種に成長を与えて実を結ばせて下さるなら、私たちは神の前に出るのでなく、神に働いて頂く余地を作ることの方が重要になります。神が働いて下さるスペースを作ることです。それは私たちが何もしないということではありません。土に種を蒔き、手入れするということ、水を遣るということなどはするのです。しかし神が働いてくださるスペースまでなくしてしまうのではありません。

  日本キリスト教団とか東京教区の総会などに行くと、選挙とか議案の採決とかに、投票すべき人を書いた紙や、賛成すべき議案や反対すべき議案に○×を記した用紙が秘密裏に回されています。それでどの選挙や議案採決もほぼ同数の票が入るのです。総会を開く前に、総会の外で既に結果が出ているのです。これでは総会は底の見え透いた茶番劇です。このような仕方では51%の人が結束すれば、49%が反対でも全体を自由に動かせます。実際そういうことが起こっています。

  教会総会というのは教区でも教団でも、聖霊が働いて下さることを信じ、祈って行います。それが神への誠実であり、良心的判断であり、信仰の誠実というものです。ですから、議場で色々討論して、聖霊の働きに任せて一人一人が自分の頭で考え、自主的な判断で議決すべきなのですが、議場の外で既に決めて、それを仲間たちに指示し、その指示に盲目的に従いますから、聖霊の働く余地がないのです。神が働いて下さるスペースを奪っている。神を締め出している。これでは、教団は神を無くした、キリスト教でないものになります。このままだと、日本キリスト教団はイエス様の上に立った教会でなくなるでしょう。

  いずれにせよ、個人的な問題でも教会のことでも、神様に働いていただく余地をなくしてはなりません。

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  さて、金持ちの議員は、人にできないことを神がして下さると聞いて、ああ、良かった。捨てなくていいんだと胸をなぜ下ろしたでしょう。よかった。金持ちのままでいられる。このままイエスに従って行けばいいんだと思ったでしょうね。

  すると突然ペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と発言したのです。議員はびっくりしたでしょう。無学な漁師、ペトロの言葉に度肝を抜かれ、もう一度気持ちを引き締められ、何も捨てることのない、安易な道に戻ろうとした自分を反省させられたでしょう。

  ルカ23章にアリマタヤのヨセフという議員が出てきます。彼はイエスの死後、その遺体を十字架から取り下ろして自分の墓に葬った人物です。ルカでは、ヨセフは「善良な正しい人」であったとあり、マタイ福音書は、彼は金持ちであったと書き、マルコ福音書は、彼は身分の高い議員であったが、勇気を出してイエスの遺体を引き取り、十字架から下ろして自分の新しい墓に納めたとあります。

  3つの福音書を総合すると、この大金持ちの議員はもしかするとアリマタヤのヨセフであったのでないかと思います。彼は今日のところで、イエスと決定的な出会いをした筈ですから、イエスの無残な十字架の死に接して、たとえ自分の地位や名声、また財産を皆失っても、勇気を出して遺体の引き取りを申し出て、自分の墓に葬ろうと決断したのだと思います。

  ヨセフが彼なら、自分の名誉、財産、地位を捨てる覚悟でイエスを葬ったのです。彼はこの日、イエスから愛のゆえに徹底的に砕かれ、低くされ、やがて弟子たちの一番後からついていく弟子として、イエスに従ったと想像されます。

  今日は28節以下が残りました。これは次の機会にお話させて頂きたいと思います。


        (完)


                                             2015年2月1日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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