悲しんだ資産家議員


                    休日、Ameugny村に遊びに来ていたお母さんと子どもたち(3)
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                                                    悲しんだ資産家議員 (中)
                                                    ルカ18章15-23節



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  イエスが、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」 と弟子たちに話しておられた時に、18節以下にあるように、ある議員が、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。

  「議員」とあるのは、長官、役人、支配階級の人、時には君主とも訳される言葉です。ここでは議員と訳されていますが、彼はサンヒドリン、ユダヤの最高議会の議員で、23節にあるように大変な大金持ちだったようです。今日なら企業の社長や会長をしながら国会議員もしている人物という所でしょう。日本でもそんな議員が閣僚の中にいますね。当時ですから、莫大な土地を持つ大地主か、外国貿易を営む人物であったかも知れません。有力議員でしょう。

  沢山の資産も名誉も持ち、尊敬も受け、それだけでなく20節以下にあるように道徳的にも堅実な生活を営む人物です。物資的、精神的、社会的なこの世のあらゆる財を手にしている人物。従って、お金も富も名誉も道徳も何も一切持たない幼子とは対極にある人間です。ルカは乳飲み子とこの資産家議員を意識的に並べて置いたのでしょう。

  彼が、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と言って、イエスの所に来たのです。彼は今所有しているものでは不十分と考えているのですから、その限り凄い人だと思います。今より優れたものを求める、あくなき向上心を持つ精進家と言っていいでしょう。

  その彼が、「善い先生」と言ってやって来た。これまで彼は善い先生を探し、指導を受けた。その後は更に善い先生を探し、そこを卒業すれば更に善い先生と、次々もっと善い先生を求めて、指導を受けながら向上して来たのかも知れません。それは求道的な素晴らしい姿勢です。だが見方を変えれば自分に箔をつけるためです。上を目指し、ステイタス、もっと上の社会的地位を手に入れるためです。そして出来れば、永遠の命も手に入れたい。

  それで、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と聞いたとあります。原語では、「何をすれば永遠の命を勝ち取ることができますか」という意味です。勝ち取る。永遠の命を手に入れ、我が物にするという野心的な心が窺われます。

  「善い先生」とありますが、この善いという言葉は、単に外観が良い、優れているという意味ではありません。ギリシャ語には外観の良さを表す単語がありますが、ここでは、内容において善いこと。外観いかんに拘らずそれ自体の本質が善いという意味のギリシャ語が使われています。彼はそこまで質的に高い、善いものを手にしたい、勝ち取りたいと思う人物です。普通ならこんな意欲的な人は褒められてしかるべきです。

  だがイエスは、「神おひとりの他に、善い者は誰もいない」と言われ、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という十戒の掟をあなたは知っている筈だと語られました。

  だが彼は、イエスが話し終わるのを今か今かと待って、言葉が終わると直ちに、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と勝ち誇ったかのように、顔を輝かせて言ったのです。得意満面の姿が想像できます。そんなものは、少年時代からしている。遠の昔からやって来たことだと、彼の高慢な心が外に現れ出たのです。

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  すると直ちに、イエスは問題の核心に入って行かれ、議員に欠けている最も大切なものを指摘されました。原文は、「だが、あなたに欠けているものがまだ一つある」となっています。

  あなたはこれも、これも、あれも、あれもして来ましたと言った。だが、唯一つのことが欠けている。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

  十戒の中心は神を愛し、隣人を愛するところにあります。あなたはそれを小さい時から守っているというが、あなたには隣人愛に生きることが欠けている。あなたは、色々なものを自分の所に集め、獲得して生きて来たが、隣人への憐れみを忘れている。神の国はあなた方の只中に来ている。だがあなたに決定的に欠けたものがある。あなたは自分の力で完全になり、永遠の命を手に入れたいと思っている。あなたは獲得する人生を送って来た。

  そこまで切に求めるのなら、今からは獲得する生活をやめ、与える生活、隣人と共に生きる生活、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

  あなたは永遠の命まで獲得したいと願っている。だが今からは、獲得することでなく、富むことから自由になって他者に与える生活を始め、私に従いなさいと語られたのです。

  先ほどの乳飲み子との関係で言えば、乳飲み子は、地位も富も、名誉も、尊敬されることも、何も持たない。だが、神の国はこのような者たちのものである。あなたも、富から自由になって生き、私に従いなさいということです。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 イエスは彼に、乳飲み子にも神の国が約束されている。だから、あなたはただ低くなり、何かを獲得することから自由になりさえすれば、永遠の命が授けられると、生き方のチェンジを求められたのです。

  ところが彼は、すっかり心がしぼんでしまって、スゴスゴと去ろうとしたのです。撥(は)ねつけられたと思ったのでしょう。こうして乳飲み子でさえ入れられると言われた、神の国に彼は入れなかったのです。

  イエスは、永遠の命は所有したり、手に入れたりするものではないと言われるのです。今で言えば、彼は何百億円、何千億円の財産を持つ資産家の国会議員でしょう。だが、所有欲から自由になり、この世的功名心から自由になること。お金は生活には必要ですが同時に、紛争の原因になり、不平等の種になります。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」これは字義通り完全な富の処分を言っているのではありません。

  貧しい人たちと共に生きる生活への生き方、考え方の転換です。イエスはお金や富を否定されたのではありません。生きるためには誰でもある程度の富は必要です。

  「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」これは字義通りではありません。彼がイエスの前から去らず、彼の現実を抱えつつイエスに従う道を選び取ることができるでしょうか。そのことはいつか次の24節以下で取り上げたいと思います。

        (つづく)

                                             2015年1月18日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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