乳飲み子に学ぶ


                               Ameugny村で(2)
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                                                    悲しんだ資産家議員 (上)
                                                    ルカ18章15-23節



                               (序)
  今日は18節以下を中心にお話をさせて頂きます。ここに登場する議員はユダヤの当時の最高法院、今の日本なら国会議員ですが、大金持ちの資産家議員ということです。

                               (1)
  そこに入る前に、まず15節以下で、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った」とあります。これとほぼ同じマタイの並行記事を秋に取り上げたので、詳しく申し上げませんが、マタイと違ってルカでは、子どもでなく「乳飲み子」となっています。英語ではベイビー、赤ちゃんです。人びとはイエス様から祝福を頂くために赤ちゃんまで連れて来たのです。

  それを見た弟子たちは「叱った」のです。元の言葉はボロクソに言うこと、息まいて強く非難することを指します。そんな赤子は私たちと関係ないだろう。俺たちは一切を捨ててイエス様に従った者だ。ヤワな事をしているんじゃないんだぞと叱ったのです。

  このお方は神の国の宣教という大任を帯びて神のもとから来られたのであって、子どもや赤子などが分かる筈がない。帰れ、帰れと、追い払おうとしたのです。

  するとイエス様は、乳飲み子らを呼び寄せ、「私の所に来させなさい。妨げてはならない」と言われた。

  イエスは「来させなさい」など、4つも同じ趣旨の言葉を重ねて乳飲み子を呼ばれたのは、それほど強い意志を持って招かれた証拠です。

  訳の分からぬ子どもかも知れない。だが、乳飲み子は親を信頼し、頼り切って生きています。受身でただ与えられるだけの存在で、一切自分の所有となるものを持ちません。だが、イエスは彼らを祝福して、「神の国はこのような者たちのものだ。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいました。

  神の国、永遠の命はこのような低い者たち、神に信頼し切った者たちのものである。「子供のように」とは、素直に、単純に、思い煩わずに、という意味ですが、神の国は、徳や資格を何一つ持たない、無力な者たちのものである。乳飲み子はただ親に依存していますが、それは神の国に入れられる者らのモデルのような存在であり、彼らから深く学ぶものがあるということです。乳飲み子がお母さんの胸にあって安心し切って眠っています。子どもから多くの光ったものを学べます。

  乳飲み子のように低く、心貧しく、素朴で、純真にならなければならない。自分はそこに入れられる資格があるなどと思っていては、決して入れない。ましてや、入ってやるなどと思っていては入れない。

  ある知人が、これまで住んでいた所から少し離れた場所に変わって別の教会に行き始めたそうです。その教会は小さい教会で、行ってあげればその教会は喜ぶだろうと思ったのだそうです。ところが、その思いが最近砕かれましたと言って強く反省していました。当たり前かも知れません。自分はあなた方の所に行ってやっている。神の国も、そんな傲慢な態度では入れて頂けないでしょう。乳飲み子のような単純さ、素直さを持ちたいものです。

        (つづく)

                                             2015年1月18日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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